40

福音書における聖ヨセフ

 聖マタイも、聖ルカも、聖ヨセフを由緒ある家系、すなわちイスラエルの王ダビデとソロモンの子孫として語っています。この先祖について、歴史的にはあまり正確にわかっていません。福音史家が語っている二つの家系のどちらがマリア ― 肉身上のイエスの母 ― にあたり、どちらがユダヤ法上の父である聖ヨセフにあたるのかわからないのです。また、聖ヨセフの出身地は、住民登録をしたベトレヘムであったのか、あるいは、生活し働いていたナザレであったのか、これもはっきりしていません。

 しかし、聖ヨセフは金持ちではなく、世界中の何万という人々のように一人の労働者にすぎず、骨の折れる慎ましい仕事をしていたことはわかっています。そして、神は、人となって、私たちのうちの一人として三十年間過ごそうとお望みになったとき、このヨセフの仕事をご自分のものとしてお選びになりました。

 聖書は、聖ヨセフが職人であったと述べています。ある教父は大工であったと付け加えています。聖ユスティノは、イエスの労働生活について述べ、鋤やくびきを作っておられたと言っています1。この言葉に基づいたものと思われますが、セビリアの聖イシドロは、聖ヨセフが鍛治職人であったという結論を出しています。とにかく、聖ヨセフは周囲の村人への奉仕のために働く人、長年の努力と汗の賜物である巧みな技術を身につけていた職人でありました。

 聖なる福音書の語っているところから、聖ヨセフの偉大な人格について考えてみると、種々の問題に当面するとき、いささかなりとも気弱であったり尻込みしたりする人物ではなく、むしろ問題に直面し、困難な状況に陥ったときにも切り抜け、責任感と独創性とをもって、自分に委ねられた任務を果たした人物であったと推し量ることができるでしょう。

 昔から聖ヨセフは老人のように描かれてきていますが、聖マリアの終生童貞性を際立たせるという良い意向によってなされたとはいえ、私はこれには賛成できません。私は、彼が若くて逞しく、おそらく、聖母よりも少し年上で、成熟した力強さに満ちた人物であったと想像します。

 貞潔の徳を実行するためには、老年になって逞しさが衰えるのを待つ必要はありません。貞潔は愛より生まれます。そして、清い愛を保つために、若者の力強さや喜びは障害とはならないのです。聖ヨセフが、マリアと結婚したときや聖マリアが神の御母であるという秘義を知ったとき、更にまた、神が人々の間においでになったことを示すもう一つのしるしとして、この世に与えようと望まれた童貞性を、完全に尊重しながら聖マリアと一緒に生活していたとき、聖ヨセフの心も肉体も若々しかったのです。このような清い愛を理解できない人は、真の愛が何であるかあまりわかっていないでしょうし、貞潔についてのキリスト教的意味を全く悟っていないことでしょう。

 すでに述べたように、聖ヨセフはガリラヤの一職人であり、大勢の中の一人にすぎませんでした。ナザレのようなひっそりとした田舎では、人は自分の生活に一体何を期待することができたでしょうか。何のかわりばえもしない、ただ毎日繰り返すだけの仕事しかありません。そして、一日の仕事を終えたとき待っているのは、翌日、その仕事を再び始めることができるように元気を回復するための貧しく小さな家だけでした。

 けれども、ヨセフという名がヘブライ語で「神、付け加え給う」ということを意味しているように、神は、そのみ旨を果たす人々の聖なる生活に、最も大切なこと、すべてに価値を与えること、神的なこと、つまり、超自然の意味をお与えになるのです。神は、聖ヨセフの慎ましく聖なる生活に、おとめマリアの生活と主なるイエスの生活を付け加えられた、言ってよいでしょう。神は、寛大さでは何びとにも優っておられます。聖ヨセフは、聖マリアの言葉を自分に当てはめることができたでしょう。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました。身分の低い、この主のしためにも目を留めてくださったからです」2と。

 聖ヨセフは、確かに普通の人でしたが、神は偉大な業を成就するにあたり、聖ヨセフを信頼なさいました。彼は、生涯を織り成している出来事のすべてを、神のお望みのままに果たすことができました。それゆえ、聖書は聖ヨセフを称賛し、ヨセフが義人〈正しい人〉であった3と述べています。ヘブライ語で正しい人とは、すなわち、信心深い人、神への申し分ない奉仕者、神のみ旨の成就者4、あるいは、隣人に対して善良で親切な人5のことを意味しています。一言でいうなら、義人とは神を愛する人のことであり、神の掟を果たし、全生涯を兄弟や人々への奉仕に捧げながらその愛を示す人のことなのです。

この点を別の言語で