97

キリストのご死去を黙想すると、日常の務めを真面目に果たし、自分の告白する信仰を真剣に考えるようになるはずです。従って、聖週間は、人間的関心によってのみ動かされる生活の流れに付け加えられた、一時的で形式的な聖なる期間にすぎないと考えてはなりません。聖週間とは神の愛を深く極め、言葉と行いによってその愛を人々に示す好機とすべきなのです。

 主は愛するための条件を定められました。聖ルカは看過することのできない、厳しい言葉を書き残しています。「わたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」11。憎むという言葉はキリストの考えをうまく表現しているわけではありませんが、主のみ言葉が厳しかったことは確かです。この表現を和らげるために、それは〈控え目に愛する〉ことであるとの解釈が時々見られますが、そのような意味ではありません。恐ろしいほどの表現ですが、否定的で無慈悲な態度を要求しているわけでもないはずです。このように言われたイエスは、別のところで、自分と同じように他人を愛することをお命じになり、またご自身を人々のために捧げられたからです。この言葉は、神のみ前では中途半端な態度は許されないことを示しているにすぎません。利己的な狭い心から出る愛ではなく、〈おおらかな心から生まれるより大きな愛〉を要求するのがキリストの言葉であると言えます。すなわち、神の愛をもって愛すべきことを教えておられるのです。

「自分の命であろうとも」というイエスの要求に注目しましょう。主が求めておいでになるのは、命そのもの、私たちの霊魂なのです。従って、高慢であったり、自分の安楽ばかりを求めたり、自己中心的な考えによって生活しているとすれば、キリスト信者と呼ばれる資格もなく、キリストの弟子であると考える値打ちもありません。言葉と口先だけではなく、〈行いをもって誠実に〉12、自己を捧げるべきなのです。神の愛があれば、私たちは十字架をしっかりと担い、全人類の罪の重さを自分の肩に感じ、各人の身分や仕事を通して、神のみ旨に基づいた明らかな愛すべきご計画を果たすことができるでしょう。これまで考えてきた言葉に加えて、イエスは次のように言われました。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」13。

 恐れずに神のみ旨を受け入れ、信仰が教え要求するところに一致した生活を築き上げる固い決心を立てましょう。戦いや、悩み、苦しみがあることは確かです。しかし、生きた信仰を持っているなら決して不幸だとは思わないでしょう。悲しみや中傷の的になるようなことがあったとしても幸福だと感じるようになり、人々を愛し、超自然的な喜びを与えることができることでしよう。

この点を別の言語で