93

キリストは王です。そして、神の子である私たちの心を統治したいと切望しておられます。けれども、人間の統治を想像してはなりません。キリストは支配することも強制することもお望みではありません。キリストが来られたのは「仕えられるためではなく仕えるため」25であったからです。

 キリストの王国とは平和・喜び・正義のことです。王であるキリストは、空しい理屈ではなく、私たちの行いを待っておられます。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」26と仰せになられたからです。

 キリストは医者ですから、キリストの恩恵が心の奥まで注ぎ込まれるにお任せすれば、私たちの利己主義を癒してくださいます。イエスは、最も悪い病は自分の罪をごまかす偽善であり、うぬぼれであると教えてくださいました。医者には正直にありのまますべてを説明しなければなりません。そして、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」27と申し上げなければなりません。御身は、私の弱さも症状もご存じです。こんな弱さにも苦しんでおります。そしてごく素直に傷口も、そしてもし膿が出ていたら、膿もお見せしましょう。主よ、御身はたくさんの人々の心を癒されました。私が御身をお受けするとき、あるいは、聖櫃の御身を眺めるとき、御身が医者である神であることを悟らせてください。

 キリストは、神のみが所有なさる知恵の師です。つまり、神をこの上もなく愛し、神においてすべての人々を愛するための知恵の師なのです。キリストの学校で、私たちの生命は私たちのものでないことを学びます。キリストはすべての人間のためにご自分の生命を捧げられました。キリストに従うのなら、人々の苦しみを顧みずに、自己の内に留まる利己主義は許されないことを理解しなければなりません。私たちの生命は神のものです。それゆえ、人々への寛大な心遣いを示し、言葉と模範でキリスト教の教えの深さを示し、人々への奉仕のために挺身しなければならないのです。

 私たちがキリストの知恵を得る望みを増すように、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」28と、イエスは繰り返し仰せになります。そこで、自分を忘れてあなたとすべての人々のことを考えることができるようにお教えくださいと、私たちは主に申し上げます。こうして神は、恩恵によって導いてくださることでしょう。幼い頃、先生の手を借りながら幼く拙い字を書いたのを憶えているでしょう。あの時のようにイエスは私たちを助けてくださるのです。そして、神のもう一つの贈り物である私たちの信仰を表す幸せが味わえるのみならず、キリスト教的な振舞いというしっかりとした文字を書き記すこともできるようになり、人々はそれを見て神の働きの素晴らしさを読みとることでしょう。

 キリストは唯一の友です。「あなたがたを友と呼ぶ」29と主はおっしゃっています。友と呼び、ご自分から近寄り、私たちを愛してくださったのです。しかし、愛情を押しつけるのではなく捧げ、その愛の最も確かな印をお示しになりました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」30。 キリストはラザロの友人でした。ラザロの死を悼み、ラザロを復活させたのです。私たちが冷淡になり意欲を失ったとき、あるいは内的生活の末期症状ともいえる私たちの硬直状態をご覧になれば、キリストはお泣きになり、その涙によって私たちは蘇ることでしょう。「あなたに言う。起きて、床をとって歩きなさい」31。死同然の硬直状態から抜け出しなさい、と言ってくださるのです。

この点を別の言語で