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こうしてカノン(奉献文)に入り、子としての信頼を込めて父である神を、慈しみ深い父とお呼びします。教会とそのすべての成員のため、つまり教皇・家族・友人・同僚のために主に祈るのです。カトリック信者は、その寛い心ですべての人々のために祈るのです。人々を思う熱意から除外される人は誰もいないからです。そして、その願いが聴き入れられるように、光栄ある終生おとめマリアと、キリストに付き従った使徒や、キリストのために殉教した人々を聖なる一致において記念するのです。

 クァム・オブラツィオネム、「神よ、この捧げ物を祝福し(…)」。聖変化のときが近づいてきました。ごミサにおいて、今また司祭を通して、いけにえを捧げるのはキリストご自身です。「これはわたしの体である」、「これはわたしの血のさかずきである」。イエスは私たちと一緒に現存されます。全実体変化(聖変化)によって、神の無限の愛が繰り返し示されます。今日、聖変化が繰り返されるこの瞬間、一人ひとり、心の中で主に次のように申し上げたいものです。「どのようなことがあっても御身から離れまいと思っております。御身は、パンとぶどう酒のもろい外観のもとに、無防備な状態で私共の間に残ってくださいましたから、私たちは自ら進んで御身の僕になります」と。それゆえ、「わたしの心をあなたによって生かし、甘美なあなたを常に味わわせてください」24。

 ここでまた、神に祈願します。お願いせずにはいられないからです。死せる兄弟のためと、私たち自身のために。この機会に、私たちの不忠実と惨めさを捧げることもできるでしょう。私たちが背負う惨めさは大変な重荷ですが、キリストは私たちのために、私たちと共にそれを背負ってくださるのです。聖三位一体の神に向かってもう一つの祈りを捧げ、カノン(奉献文)は終わります。「キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は、世々に至るまで」。

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