89

次いで、聖書の書簡と福音書に耳を傾けます。書簡と福音書朗読は、私たちが理性で悟り観想し、意志が強められ、教えを実行に移すようにと人間の言葉で語りかけてくださる聖霊の光です。私たちは唯一の信仰、クレド(使徒信条)を告白する一つの民、「御父と御子と聖霊との一致において集められた民」22だからです。

 続いて、奉献に入り、人々のパンとぶどう酒を捧げます。供え物はさほど値打ちのあるものではありませんが、祈りと一緒に捧げます。「神よ、悔い改めるわたしたちを、今日、みこころにかなういけにえとして受け入れてください」、 再び自分の惨めさを思い出し、主に捧げられるものがすべて清くあって欲しいという願いが心に溢れ、「私の手を洗い、(…)主の家の美麗さを愛する」と唱えます。

 指を清める少し前に、その聖なるみ名に捧げられるいけにえを祝福してくださいと聖霊にお願いしたばかりですが、清めが終わると、もう一度、聖三位一体に向かいます。「聖なる三位一体よ、われらの主イエス・キリストの受難、復活、昇天の記念として、また、終生おとめである聖マリアと諸聖人の光栄のために、われらの捧げ奉るものを受け入れてください」。

 司祭は「兄弟たちよ、祈れ」を唱えて、この捧げものをすべての人の救いに役立ててくださるように願います。なんとなれば、この捧げ物は私のものであり、あなた方のものであり、聖なる全教会のものだからです。ごミサにあずかっている人がわずかであっても、そこに一人の信者しかいなくても、あるいは司祭一人であっても、「兄弟たちよ、祈れ」と唱えます。どのごミサであっても、普遍的な犠牲、すべての民族と言葉と民と国の贖い23のための犠牲であるからです。

 すべてのキリスト者は、聖徒の交わりによって捧げられるごミサすべての恩恵をいただきます。例え何万人の前で捧げられたごミサであっても、また、たった一人の侍者、多分気を散らしながら司祭を助ける子どもと共に捧げたごミサであっても、その効果はなんら変わらないのです。いずれの場合にも、天と地はひとつになって、主の天使と共に歌うのです。サンクトゥス、サンクトゥス、サンクトゥス、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな…」。

 私は天使と共に神を賛美し、称揚します。天使と共に申しましたが、ごミサを捧げるときは天使に取り巻かれているのですから、別に難しいことではありません。天使は聖三位一体を礼拝しているのです。そして、聖母も何らかの形でごミサに介入されます。マリアは聖三位一体と全く一致しているのみならず、キリストの御母、キリストの御体と御血の母、完全な神・完全な人間であるイエス・キリストの母だからです。イエス・キリストは、男性の介入なしに聖霊の力によって、聖母マリアのご胎内に宿られ、母マリアの血をお受けになりました。そしてその御血こそ、救いの犠牲、つまり、カルワリオとごミサで捧げられる御血であるからなのです。

聖書への参照
この点を別の言語で