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ごミサに生きるとは常に祈ることだと言えましょう。常に祈るとは、私たち一人ひとりが神と個人的に出会う機会となるのがミサであるとよく自覚することであり、さらに礼拝と賛美を神に捧げ、神に願い、感謝し、罪の償いをして自己を清め、キリストにおいてすべての信者と完全に一つになることなのです。

 多分、どのようにすれば神のこの大きな愛に応えることができるだろうかと、しばしば考えたことでしょう。また信者としてどのような生き方をすべきかをはっきりと知りたいと思ったこともあるでしょう。答えは、すべての信者にとって実行可能な簡単なことです。つまり、ミサに愛を込めてあずかり、ミサの中で神との交わり方を学んでいけばよいのです。なぜならこの犠牲の中に、主がお望みになることがすべて含まれているからです。

 ごミサがどのように進められて行くかについては、すでによくご存じのことでしょうが、再び繰り返すことをお許しください。ごミサに一歩一歩従って行けば、改善すべき点、根こそぎにするべき欠点、あるいは、あらゆる人々と兄弟愛をもって接するにはどうすべきかなどについて、主が教えてくださるでしょう。

 司祭は、〈私たちの若さを喜びで満たされる神〉の祭壇に近づきます。神がそこにおられますから、ごミサは喜びの歌で始まります。この喜びと感謝と愛は、祭壇に接吻することによって表現されます。祭壇はキリストの象徴であり、聖人たちの形見であり、狭い場所ではあっても無限の効果を有する秘跡の場であるからです。

 コンフィテオル(告白の祈り)を唱えることによって、至らない点を痛悔します。しかし、過失を抽象的に思い出すのではなく、具体的な罪や欠点があることを自覚するのです。そこで、「キリエ・エレイソン、クリステ・エレイソン」(主よ憐れみ給え、キリスト憐れみ給え)繰り返し唱えるのです。もし私たちに必要な罪のゆるしが、私たちの功徳の結果として与えられるものであるなら、心は苦汁に満たされることでしょう。しかし、神は善い御方ですから、そのご慈悲によって私たちはゆるされるのです。それゆえ、グロリア(栄光唱)を称えます。「主のみ聖なり、主のみ王なり。主のみいと高し、イエス・キリストよ。聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに」と。

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