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聖三位一体全体が祭壇の犠牲において現存されますが、御父のみ旨に従って、聖霊と共に、御子が救いの供え物として捧げられます。至聖なる三位一体、唯一にして三位なる神、唯一の本性と愛を有し、聖化の働きにおいても一致を保つ神の三つのペルソナ(位格)親しく交わることができるようになりたいものです。

 奉献の後の、指の清めのすぐ後で、司祭は次のように祈ります。「聖なる三位一体の神、わたしたちの主イエス・キリストの受難、復活、昇天の記念としてささげるこの供え物をお受けください」15、そしてごミサの終わりには、聖三位一体に尊敬を表す素晴らしい祈りを唱えます。「聖なる三位一体の神、しもべであるわたしの奉仕のわざをこころよくお受けください。値打ちのないわたしが敢えてみ前にお捧げするこのいけにえをお喜びください。御いつくしみによって、わたしとわたしが捧げたすべての人々のために快くお受け入れください」16。

 繰り返し申しますが、ごミサは三位一体の神の働きであって人間の働きではないのです。ごミサをたてる司祭は、自分の体や声をお貸しすることによって主のみ旨に仕えますが、自分の名においてではなく、キリストのペルソナとキリストのみ名において振る舞うのです。

 人間を愛しておられる三位一体の神は、ご聖体に現存するキリストを通して、教会のため、人類のためのあらゆる恩恵を与えてくださいます。マラキが預言した犠牲はこのご聖体のことなのです。「日の出る所から日の入る所まで、諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている」17。聖霊と共に御父に捧げられるキリストの犠牲であり、無限の価値を有する奉献であって、旧約の犠牲では獲得できなかった救いがこの犠牲により、私たちの中で永遠に続くものとなるのです。

聖書への参照
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