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この問題はさておき、素晴らしい秘跡の黙想を続けましょう。今は病者の塗油と称される終油の秘跡を受けて、御父のお住まいに着くまでの旅支度をします。恩恵の浪費とも言えるほどの秘跡であるご聖体によって、恩恵だけでなく、御体・御血・ご霊魂・神性を伴い、実際におられる神ご自身、つまりイエス・キリストご自身を受けるのです。しかも、イエスはごミサの間のみではなく常に現存してくださるのです。

 神の恩恵の通路である秘跡を、すべての信者のために確保するという司祭の責任について、私は何度となく考えました。神の恩恵は一人ひとりを救うために与えられます。各人が具体的援助を必要とするからです。人々を集団として扱うことはできません。一人ひとりの霊魂は、かけがえのない宝、一人ひとりの人間は唯一の存在です。キリストは一人ひとりのために御血を流してくださったのですから、聖職者たちが人々をキリストの愛に結ぶ絆となるべき自分の義務を自覚せず、また、道具にすぎない自分を謙遜に認めて一人ひとりに個人的に近づくことをせず、信者の人間としての尊厳と神の子としての尊厳を損なうならば、不当と言うほかはないでしょう。

 戦いについて考えてきました。ところで、戦いには訓練と適切な栄養が必要です。また病気や打ち身や負傷のときには応急処置も必要となります。秘跡は教会の主たる薬であって、余分なものではないのです。自ら進んで秘跡を放棄するようなことがあれば、イエス・キリストに従うことはできなくなります。生きるために呼吸や血液の循環や光を要するのと同じように、各瞬間に主がお望みになっていることを知るためには、秘跡が必要なのです。

 強くなければ修徳に励むことはできません。ところが、力は創造主に属する能力です。私たちは暗闇であり主は明澄な輝き、私たちは病であり主は逞しい健康、私たちは欠乏であり主は無限の富です。私たちは弱い存在ですが、主は強めてくださいます。あなたはわたしの神、わたしの砦18、私の力はすべて御身から与えられます。キリストの救霊の御血がもどかしげに湧きだすのを邪魔するものはこの世にはありません。しかし、卑賤な人間のことですから目を覆って神の偉大さに気づかないこともあります。だからこそ、特に神の民を霊的に導き仕える、聖務を有する人たち、ひいては全信者に、恩恵の源を絶やさない責任とキリストの十字架を恥じない責任が課せられているのです。

聖書への参照
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