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心戦

「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい」9と聖パウロは勧めています。キリスト信者の生活は、戦い・戦争、つまり美しい平和の戦いであって、人間の引き起こす戦争のことではありません。人間の戦争は分裂に始まり、憎悪に鼓舞されたものですが、神の子の戦いは自己愛との戦いであって、一致と愛を基とします。「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ」10る 。ここでいう戦いとは、うぬぼれ、悪へ向かわせる勢力、思い上った理性に抗する休みなき前哨戦のことなのです。

 私たちの主が人間の救いにとって重要な季節をお始めになる枝の主日には、上辺だけの浅はかな考えを捨てて、中心になるもの、本当に大切なものに向かいましょう。私たちの狙いは天国に入ることなのです。万一、天国に入れないとすれば何をしても無駄に過ぎなくなります。天国に入るためにはキリストの教えに忠実でなければなりません。そして、忠実であるためには、永遠の幸せの邪魔をする障害に対抗して、絶え間なき戦いに没頭しなければならないのです。

 戦いについて話すと、すぐに私たちの弱さを頭に浮かべて、戦う前から失敗や過ちのことを考えてしまいます。しかし、神はそれもよくご存じなのです。また道を歩む限り、どうしてもほこりを巻き上げてしまいます。私たちは創られたもの、欠点だらけの存在であって、いつまで経っても欠点を取り除くことはできないと申し上げたいのです。しかし、それらは魂のかげりであって、そのおかげで、それとは対照的に、神の恩恵と神の恵みに応えようとする私たちの努力が光と輝きを帯びてきます。しかも光と陰、つまり私たちの努力と過ちのおかげで、私たちは親切と謙遜・理解力と寛大さを備えた人になることができるのです。

 自分を欺かないようにしましょう。人生にはさっそうとしたところや勝利があるのと同じく、落ちぶれたところや敗北もあります。キリスト信者の一生、列聖された聖人の人生行路も常にこのようなものでした。ペトロやアウグスチヌスやフランシスコのことを覚えているでしょう。母の胎内にいるときから恩恵に固められていたかのように聖人の偉業を語る伝記類は読むにたえません。それは素朴な心から出たものですが、同時に、教理の知識が不足していた結果生まれたものです。キリストの英雄たちの本当の伝記は私たちと同じなのです。彼らとて戦っては勝利を得、また戦っては敗北を喫したものです。そして敗れたときは、痛悔の心をもって再び戦いに赴いたのです。

 敗北の憂き目に遭えばいつも心に痛みを感じることでしょう。しかし大抵の場合、というより、いつもはあまり大切でない敗北に違いありませんから、驚く必要はないのです。神の愛があり、謙遜と堅忍の心があり、執拗に戦いを続ける限り、このような敗北もたいして重大な意味を持つことはありません。戦い続ける限り、いずれ勝利が訪れるからです。しかもその勝利は神の目にとっては栄光であります。神のみ旨を果たそうと望みつつ、無力な自分に頼らず神の恩恵に頼って、しかも正しい意向を持って振る舞うならば、失敗などあり得ないのです。

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