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神の慈しみ

今日から待降節が始まります。これを機会に霊魂の敵のそそのかしについて考えたのはよかったと思います。そのそそのかしとは乱れた官能や軽率さ・神に反抗する理性の狂い・神や人間への愛を冷ます尊大な思い上がりなどです。こういう心の状態はすべて明らかな妨げであり、その攪乱力は決して小さくありません。そのため典礼は神の慈しみを懇願するのです。「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み、わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように、敵が誇ることのないようにしてください。あなたに望みをおく者はだれも、決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです」24と、入祭唱で唱えました。奉献の祈りでも、「主によりたのむ者は、はずかしめられることがない」と、繰り返している通りです。

 救いの時が近づいている今日、聖パウロの次の言葉を聞くと大いに慰めを受けます。「救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました」25。

 聖書に目を通せば、神の憐れみの顕れを至るところで見つけることができるでしょう。神の「慈しみに満ち」26、「すべての子の上にひろがる」27。「主に信頼する者は慈しみに囲まれ」28、主はわたしに「先立って進まれ」29、「主の使いはその周りに陣を敷き(…)守り助けてくださ」30る。「わたしを超えて力強い」31。神は慈しみ深い父として配慮してくださり、慈しみ深く(…)わたしを御心に留めてくださる32。それは、「日照りが続いたときの雨雲のよう」33な恵み深い慈しみ34なのです。

 神の憐れみの物語をイエス・キリストは簡潔に要約なさいました。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」35と。さらに別の機会には、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」36とも仰せられました。福音書のいろいろな場面の中でも次のようなものが強く印象に残っています。たとえば、姦通した女に対するご寛容・放蕩息子のたとえ・迷った羊のたとえ・負債を許された僕のたとえ・ナインのやもめの息子の復活37など。この大奇跡を説明するために、正義に基づく理由はいくらでもありました。何しろ、あの哀れなやもめの一人息子が死んだのですから。彼女にとっては彼だけが生き甲斐であり、老後の面倒も見てくれるはずだったのです。しかしキリストが奇跡を行われたのは、正義によってではなく、お憐れみになったからです。人の悲しみをご覧になって心から同情なさったからなのです。

 主の憐れみはなんという安らかさをもたらすことでしょう。「もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」38。これは必ず実現される約束であり招待であります。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」39。主の憐れみが私たちを守ってくださるので、聖性の敵は、何も手出しできないでしょう。たとえ自分の弱さや過失によって倒れたとしても、主が馳せつけて私たちを助けてくださることでしょう。「あなた方は、怠慢を避けること、尊大から遠ざかること、敬虔になること、現世の物事の虜にならないこと、はかないものよりも永遠を大切にすることを学んだ。しかし人間的な弱さによって、この滑りやすい世の中をしっかりと歩み続けて行くことは難しいであろう。そこでよい医者は、あなたが方向を見失ったときに備えて手段を与え、憐れみ深い裁判官は赦しへの希望を残してくださったのだ」40。

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