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プライバシーの権利

 盲人が癒された奇跡の場面に戻りましょう。イエス・キリストは、盲人の不幸は罪の結果によるものではなく、神の力を示す機会であると弟子たちにお答えになりました。そして、いとも簡単に、その盲人を見えるようにしようと決められました。

 しかしその途端に、幸福と嵐が同時にその男を襲い始めたのです。誰も彼をそっとしてはおきませんでした。まず、「近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々」11でした。福音書は、彼らが喜んだとは言っていません。前には見えなかったが今見えるようになったのはわたしであると盲人が主張したにも拘わらず、誰もそれを信じようとしなかった、記しています。幸運を静かに味わえるようそっとしておく代わりに、ファリサイ人のところに連れて行き、事の次第を再び追求するのです。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです」12と、彼は再び答えました。

 一大善・一大奇跡が起こったにも拘わらず、ファリサイ人たちは、そんなことは起こらなかったと証明したかったのです。ある人は、偽善的でひねくれた料簡の狭い理屈を並べて、癒されたのは安息日である、安息日に働くことは禁じられているので奇跡ではないと主張しました。別の人々は、今日でいうなら取り調べとでもいうものを始めました。まず本人の両親の所に行って、「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか」13と問いただします。両親は権力ある人々を恐れたので、論理的な安全を保証する条件をすべて備えた答え方をしました。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」14。

 その調べに当たった人々は信じることができませんでした。信じたくなかったからです。「盲人であった人をもう一度呼び出して言った。『神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ』」15。

 このように簡潔に聖ヨハネは、人間の基本的権利、つまり尊敬をもって扱われる権利に対する恐るべき不当行為の一例を述べています。

 こういう例は、今日でもしばしば見かけられます。他人の私生活を探ろうとする病的なほどの好奇心を指摘することは、今では何の雑作もないことです。犯罪容疑者の取調べにおいてさえ、一つの可能性にすぎないことを確実であると断定しないように、慎重に穏やかに取り調べるためには、多少なりとも正義の意識が要求されます。犯罪であるどころか、れっきとした正しい行いであるはずのものを踏みにじる不健全な好奇心が、どれほど邪悪であるかは全く明らかなことです。

 〈プライバシーの売買〉をしているのではないかと疑わざるを得ない人々の追求から、人間の尊厳を守り黙否する権利を擁護する必要があります。この権利擁護という点に関しては、キリスト信者であるなしに拘わらず、良識のある人ならば皆一致しているはずです。いうのは、主体性を確立し、むやみに人目にさらされたくない、家族内の悲喜こもごもはそっと秘めておきたいという正当な望みだからです。特に、大騒ぎをしないで善を行い、困っている人に純粋な愛から助けの手を差し伸べても、このような奉仕を公表する義務はないと考えることや、プライベートな心の内を、内的生活を持たず持ちたいとも思わず、不敬にも人々を愚弄すること以外はなにもしない厚顔無知な人間には、さらけ出すようなことはしたくないという思いが踏みにじられるからです。

 しかし、執拗に嗅ぎまわろうとする人々から逃れるのはなんと難しいことでしょう。穏やかな生活を脅かす方法が数多く作り出されました。名誉を守ろうと望んでも、なかなかそうはさせないような技術や反論の方法がたくさんあるのです。しばしば、良い行いをする人などいないという前提から話が始まります。この誤った論法に巻き込まれると必然的にメアクルピズム、つまり自己批判に追い込まれます。もし泥を被ってありもしない罪を認めなければ、救いようのない悪人であると言われるだけでなく、さらには、傲慢な偽善者であるとさえ決めつけられてしまうのです。

 別の方法で攻撃されることも度々あります。他人を中傷するようなことを書いたり言ったりする人は、「あなた方が高潔の士であることを認めるつもりはある」と言います。しかし続いて、「そのように思わない人々もあり、彼らはあなたがどろぼうであると吹聴することもやりかねません。あなたがどろぼうではないことを、どのように証明されますか」と尋ねるわけです。あるいはまた、「あなたは、自分の行いが清く気高く正しいことを、倦まず弛まず主張して来られました。しかし万が一に自分の行いが汚れにみち不潔で歪んでいるかも知れないことを考えて、再考していただくわけにはいきませんか」と追求します。

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