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役立つために仕える

 仕事を聖化しようと思えば、人間的な面でも超自然的な面でも、とにかく真剣に働かなければなりません。この点をよく理解するために、偽福音書の物語を思い出してみましょう。「イエスの父は大工で、鋤や頸木を作っていた。ある日、裕福な人からベッドを作るよう依頼を受けたが、左右の板の長さが揃わず困っていた。すると幼いイエスは、同じ長さになるように短い方の板を引っ張った。父ヨセフは、我が子を眺め感嘆し、抱擁と接吻を浴びせて言った。『私は幸い者だ。神様はこんなに素晴らしい子を授けてくださったから』」17。

 聖ヨセフがこのような動機で神に感謝しなかったことは確かです。ヨセフの仕事ぶりがこうであったとは思えないのです。聖ヨセフは、安易で奇跡的な解決を求める人ではなく、忍耐と努力の人、必要なときには工夫を惜しまない人だったのです。神が奇跡をなさることは十分に知っています。「主の手が短くて救えないのではない」18と言うとおり、神は依然として力強い御方ですから、幾世紀も前に行われた奇跡は今続いて起こっているのです。

 しかしながら、奇跡は救いをもたらす神の全能の顕れでこそあれ、人間の無能の後始末を引き受け、楽をさせるための手段では決してありません。神がお望みになる奇跡は、キリスト信者としての召し出しに堅忍すること、毎日の仕事を聖化することなのです。普段の仕事を愛の心で成し遂げることによって、日常生活という散文を愛の詩・英雄詩に変える奇跡なのです。使徒職への熱意と責任感を持ち、仕事に有能な人物になること、これこそ神が私たちにかける期待なのです。

 そこで、皆さんの仕事の座右の銘として〈役立つために仕える〉をお勧めしたいのです。何かをしたと言えるためには、まずやり遂げなければなりません。託された仕事を立派に果たすためには立派な仕事をしたいという望みだけでは十分でなく、仕事に熟練しなければなりません。そして、もし立派な仕事をしたいと本心から望むなら、人間に可能な限り完全な仕事を成就するために心要な手段をすべて講ずることでしょう。

聖書への参照
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