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肉の欲とは感覚の乱れた傾きを全般的に指すのでもなく、性欲を指すのでもありません。いうのは、性とは人間の聖化され得る気高い一面ですから、秩序づけられている限り、それ自体悪いものではないからです。ですから、私は淫らなことについては話したくありません。「幸いなるかな、心の清い人、彼らは神を見るであろう」18というキリストの言葉はすべての人々に該当するものですから、清さについてだけ話したいのです。神から受けた召命によって、ある人々は結婚生活における貞潔を守らなければならず、他の人々は人間的な愛情を捨てて神の愛のみに熱愛をもって応えなければならないでしょう。いずれの場合も官能の奴隷ではなく、自分の身体と心の主人となって、人々のために献身的に自己を捧げることができるのです。

 純潔という徳について述べるとき、私はそれに〈聖なる〉という形容詞を付け加えることにしています。キリスト教的清さとか、聖なる純潔とか言うとき、何の汚れにも染まらず、清らかであることに誇りを感じるという意味ではありません。神の恩恵によって毎日敵の落とし穴から救われているとは言え、私たちの足は粘土19でできているのだと自覚することであります。キリスト信者にとって、また一般的に人々と共に生活する上で大切な徳がいろいろとたくさんあります。それを忘れて、この徳だけを特に取り上げて書いたり説教したりするのに一所懸命な人々がいますが、それはキリスト教を歪めることにほかならないと思います。

 聖なる純潔だけがキリスト教の唯一無二の徳であるとは言えませんが、聖化を目指して日々の努力に耐え抜くために不可欠な徳であります。もし純潔を守らなければ使徒職への献身などあり得ないでしょう。純潔とは、霊魂も身体も能力も感覚もすべて主に捧げさせるあの愛の結実であります。ただの禁欲ではなく喜ばしい徳なのです。

 肉の欲は乱れた官能だけに限られるのではありません。神への忠実をおろそかにするという犠牲を払ってでも、最も容易なもの・快いもの・上辺だけを見て近道を選ぶ怠惰、熱意の不足を含んでいます。

 このように振る舞うことは、聖パウロも警告している法則の一つ、すなわち罪の掟の勢力に無条件降伏するようなものです。「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救ってくれるでしょうか」20。そして使徒は、「主イエス・キリストを通して神の恵み」21によって解放されるのであると答えています。謙遜であれば神の恩恵はいつも与えられるのですから、肉の欲に対抗して戦うことができます。できるのみならず戦わなければならないのです。

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