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博士たちと一緒に没薬もお捧げしましょう。ここで没薬とは、キリスト信者の生活には欠かすことのできない犠牲のことです。没薬は主のご受難を思い起こさせます。兵士たちは十字架上の主に没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしました32。御体を埋葬するために没薬を塗りました33。ところで、犠牲や節欲の必要を考えているとは言え、今日祝うこの喜ばしい祝日に、悲しみの調子を添えるためだとは考えないでください。

 犠牲とは悲観的なものでも、とげとげしい心でもありません。犠牲には愛徳が伴わなければ何の役にも立ちません。それゆえ、この世の事物に対しては泰然自若とした態度をとりながら、周囲の人々には犠牲を払わせないような犠牲を探さなければなりません。惨めな人や冷血漢はキリスト信者にはなれないでしょう。行いをもって愛し、その愛を苦しみの試金石に置いて証すことができる人こそ、キリスト信者と言えるのです。

 しかし、その犠牲は、極めて稀にしかない桁外れの自己放棄の業にあるのではなく、大抵の場合、小さな勝利から成るものです。そして、小さな勝利とは、厄介な人に微笑みかけるとか、余計な富に対する欲望を拒むとか、人の話に耳を傾ける努力を惜しまず、神が私たちに委ねられた時間をよく活用することなのです。その他、毎日、探さなくともやってくる思いがけない出来事・困難・不愉快など、一見無意味に見える出来事の中にもまだたくさんの小さな勝利を得る機会があるのです。

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