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乳香をお捧げしましょう。乳香とは、「キリストによって神に献げられる良い香り」30を発散する気高い生活を送る望み、主の許にまで昇っていく望みのことです。私たちの言葉や行いを〈良い香り〉で充満させるとは、理解や友情を〈蒔く〉ことなのです。孤独を感じたり、とり残されたりする人が一人もいないように、私たちは人々の傍にいなければなりません。愛徳は愛情であり、人間的な温かさでもあるはずです。

 イエス・キリストはこのように教えておられます。人類は何世紀も以前から救い主の到来を待っていました。預言者たちは色々な方法で救い主の到来を告げてきました。罪のためあるいは無知のために、人々は神の啓示の大部分を知らずにいましたが、地の果てに至るまで、神のお望みや救われたいという切望は保たれていました。

 時が満ちました。人類救済の使命を遂行するために、プラトンやソクラテスのような天才的哲学者が現れたのでも、アレキサンダー大王のような強力な征服者が地上に居を定めたのでもありません。一人の幼子が馬屋で生まれたのです。それは世の救い主でありました。しかし口を開く前に行いをもって愛を示されました。魔法をかけに来られたのではありません。もたらしてくださる救いは、人の心を通じて伝わるべきだと知っておられたからです。主が最初にお見せになったのは、笑い声と泣き声であり、人となられた神の無邪気な寝姿でした。そのような姿を見て、私たちが主をいとおしく思い、腕に抱き寄せることができるためだったのです。

 再び、キリスト教とは何であるかが確認できました。もし、キリスト信者でありながら行いをもって愛を示さないならば、キリスト信者としては失格も同然であり、人間としても挫折したことになるでしょう。人々を、自分が昇進するための踏み台や数字のように見做してはなりません。都合によって、誉めたり貶したり、へつらったり軽蔑したりしてはならないのです。人々のこと、そして第一に、あなたの傍にいる人が誰であるかを考えてください。皆、神の子なのです。神の子という素晴らしい肩書きが表す尊厳を額面通り受けるに値する人々なのです。

 神の子たちに対して、私たちは神の子らしく振る舞わなければなりません。私たちの態度は犠牲を伴った愛であるべきで、それは毎日、人目に触れない献身の業や黙々とした犠牲や理解などの数限りない小さな行いに表れければなりません。これこそ〈キリストの良い香り〉なのです。初代教会の兄弟たちと共に住んでいた人々を、「彼らはなんと愛し合っていることか」31と叫ばせたのはこのような愛徳だったのです。

 達成できそうもない理想について語っているのではありません。キリスト信者とは、およそライオンなどいるはずのない自分の家の廊下で、ライオン狩りをしたと言われている男、タルタリンではありません。私は、具体的に毎日の生活、すなわち、仕事や家族関係、友人との関係などを聖化する必要についてお話ししたいのです。日常生活の場でキリスト信者でないとすれば、一体どこで信者であることができるのでしょうか。香からたち昇るよい香りは、たくさんの香の粒が静かに熾火に燃されて生じます。〈キリストの良い香り〉が人々の間に目立つのも、時たま燃え上がる炎によるのではなく、正義・気高さ・忠誠・理解・寛大さ・喜びなど、埋れ火の働きをする諸徳の結果によるものなのです。

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