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黄金と乳香と没薬と

「その星を見て喜びにあふれた」17。ラテン語の原典では喜びという語を感嘆して繰り返しています。星をもう一度見つけたとき、博士たちは喜びによろこんだのです。どうしてそんなに嬉しかったのでしょうか。一度も疑ったことのない人々でありましたから、星は決して消え失せていないことを、主が証明なさったのです。肉眼では見えなくなっていたのですが、実はいつも心の中にその星を保ち続けていたのです。キリスト信者の召命とはこのようなものです。信仰を失わないならば、「わたしは世の終わりまで」18私たちと共にいると言われたイエス・キリストヘの希望を保ち続けるならば、星は再び現れます。そして召命の事実を再度確認するならば、もっと大きな喜びが湧き上がり、その喜びによって私たちの信仰と希望と愛はさらに強められるのです。

「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝」19んだ。私たちもイエスの前に、人性の後ろに隠れておられる神のみ前にひざまずきましょう。神からの呼びかけに背を向けたくはない、神から決して離れるまい、忠誠を妨げるものは全部私たちの道から取り除きたい、神の勧めに心から素直でありたいと繰り返し申し上げましょう。あなたは心の中で私も同様に心の中で声無き叫びをあげながら祈りますから ― 次のように幼子に申し上げているのです。「忠実な良い僕だ。(…)主人と一緒に喜んでくれ」20と、私たちにも言っていただきたいので、たとえに出てくるあの僕のように善良で几帳面な者になりたいと願っております、と。

 「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」21。福音書のこの一節をよく理解できるようにゆっくり考えましょう。無であり何の価値もない私たちが神に捧げ物をするなどとは、あり得ることなのでしょうか。聖書には、「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」22とあります。人間には、主の賜物がもつ深い意味や美しさをそっくりそのまま見つけることも探りあてることもできません。「もしあなたが、神の賜物を知っており(…)」23と、イエスはサマリアの女にお応えになっています。イエス・キリストは、すべてを御父に期待するように、何はさておき神の国とその義を求めるように、そうすれば、他のこともすべて加えて与えられる、また、天の父は私たちが必要としているものをよく知っておられる24、と教えてくださいました。

 救いの摂理において、御父は一人ひとりに愛情を込めて配慮なさいます。「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」25。従って、主が必要としておられることを何かお捧げしようと望むのは無益なことです。支払うすべもない負債者26の立場にあるわけですから、私たちの贈り物は神には喜ばれない旧約の律法のそれに似たものになるでしょう。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために体を備えてくださいました」27。

 しかし主は、与えるということは愛し合っている者同士にとって当然な行為であることをよくご存じですから、主自ら、私たちから何をお望みであるかを示してくださいます。富や、陸や海や空の産物や動物を必要とはされません。それらは全部主のものですから。もっと大切な心の底にあるものをお望みです。私たちは自ら進んでそれをお捧げしなければなりません。「わが子よ、あなたの心をわたしに委ねよ」28。主は分かち合いなどお望みになりません。すべてをお望みなのです。私たちが持っているものを探しておられるのではありません。私たち自身を求めておられるのです。私たち自身を神に捧げれば、その時こそ他の贈り物をお捧げすることができるのです。

 黄金をお捧げしましょう。ここで言う黄金とは、金銭や物質から離脱した精神のことです。金銭も物質も神に作られたものですから、本来良い物であることを忘れてはなりません。それらに心を奪われることなく、人類が有益な使い方をするよう、主が用意してくださったものです。

 この世のものは決して悪くありません。人がそれを偶像視し、その前にひれ伏すとき有害なものとなりますが、善のための手段となし、キリスト教の課題である正義と愛を実行するために用いるならば、高貴なものとなるのです。宝探しに行く人のように、経済的な富を追い求めることは感心できません。私たちの宝はすぐ傍の飼い葉桶に横たわっておられるキリストです。キリストに私たちの愛をすべて集中させなければなりません。「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」29と言われるからです。

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