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少し前に、博士たちが神の御子を礼拝する場面を表した大理石の浮彫細工に見とれたことがあります。その彫刻のまわりには王冠・十字架をのせた地球・剣・王笏などの象徴をそれぞれ手にした四位の天使が刻まれていました。今日祝おうとしている出来事を、よく知られているしるしを用いて、このように浮彫で表現してあったのです。言い伝えによれば、王であったと言われている賢人たちは、エルサレムで「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」1と尋ね、御子の前に来てひざまずいたのでした。

 私も今、この問いに急き立てられて、全く家畜だけの場所にすぎない「飼い葉桶の中に寝ている」2イエスに想いを巡らせています。主よ、御身の王冠や剣、王笏など、王の尊厳を表す道具はどこにあるのですか。それらは御身のものであるのに持つことをお望みになりません。御身は布に包まれたままでお治めになるからです。身を守るものを何も持たない素手の王です。幼子なのです。「自分を無にして、僕の身分になり」3という使徒の言葉を思い出さないわけにはいきません。

 私たちの主は、御父のみ旨を人々に示すために、人間の体をおとりになりました。そして、ゆりかごの中にいるときから教えを説かれるのです。救霊のみ業に参与させるために、イエス・キリストは私たちを求め、聖化への召し出しを与えてくださるのです。イエスの最初の教えを考えてみましょう。隣人に対して勝利を得るのではなく、己に打ち勝つ努力を続けて、主と共に人々を救わなければならないと教えておられます。人々を神の許へ導いていくには、キリストのように己を空しくし、人々の僕になるべきだと言っておられるのです。

 王はどこにおられますか。イエスは何にもまして心を、あなたの心を治めたいと望んでおられるのではないでしょうか。そのために子どもになられたのです。幼子を愛さない人がいるでしょうか。王はどこにおられますか。聖霊が私たちの心に形づくろうとするキリストはどこにおられるのでしょうか。神から遠ざかるもとになる傲慢な心にも、私たちを孤立させるもとになる愛徳の不足したところにも、キリストはおいでになりません。そのようなところには、孤独な人間がいるのみで、キリストはおいでにならないのです。

 ご公現の祝日、外見上は王の尊厳を何も持っておられない王・幼子イエスの足もとで、次のように申し上げましょう。主よ、私から傲慢を取り除いてください。自己を主張して他人に自分を押しつける私の自愛心を踏みにじってください。私の人格の基礎を御身との一致におくことができますように。

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