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父である神のみ旨の成就

 イエスは今も私たちの心の中に安らぎの場を探し続けておられると申し上げても、信仰の真理から離れることにはなりません。自己の盲目や忘恩を恥じて主の赦しを願わなければなりません。心の扉を今後決して閉じることのないよう、恩恵を願わなければならないのです。

 神のみ旨への完全な従順は、自己放棄と奉献を要求することを、主は隠そうとはなさいません。神の愛は権利を要求せず、奉仕を望まれるからです。その道を最初に歩まれたのが主だったのです。イエスよ、御身はどのように従われたのですか。「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで」20。自己の殻から抜け出して、〈自分の生活を煩わせ〉、神と人々への愛に賭けなければなりません。「ここであなたは生きることを望んでいたが、何かが起こることは望んでいなかった。しかし、神は他のことをお望みであった。二つの意志があるが、あなたの意志は、神のご意志に一致するために、矯正されなければならない。あなたの意志に合わせるために、神のご意志を歪めるようなことがあってはならない」21。

 神のみ旨を果たすために ― 主よ、御身のように死に至るまで ― 生涯を賭けた大勢の人々を見てきました。彼らは、全人類の利益のために、自己の情熱と仕事を教会への奉仕に捧げたのです。

 従順を学びましょう。奉仕の心を学びましょう。人々に役立つように、自ら進んで自己を捧げるに優る尊厳があるでしょうか。心の中で不満を囁く自尊心やスーパーマンであるかのように思わせる傲慢の誘惑をきっぱりと拒否し、唯一の勝利は謙遜の勝利だけだと叫ばなければなりません。そうすれば十字架上のキリストと一致できることでしょう。嫌々ながら、不安を感じつつ仏頂面でというのではなく、喜んで一致できることでしょう。自己を忘れることによって得ることのできるこの喜びは、愛の最良の証しだからです。

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