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仕えつつ支配する

 キリストの支配に心を任せれば、私たちは人々の支配者にではなく、奉仕者となることでしょう。奉仕、これは、私の好きな言葉です。王であるお方に仕え、この王ゆえに、その血によって贖われたすべての人々に仕えること。キリスト信者が奉仕の精神を学ぶことができればと思います。私たちの、この奉仕の精神を学ぶ決心を主に打ち明けて助けをお願いしましょう。奉仕することによってのみ、キリストを知り、愛し、またキリストを人々に知らせ、人々がもっとキリストを愛するようになるからです。

 しかし、人々にキリストを知らせる方法とはどのようなものでしょうか。何をするにも、自ら進んでキリストに隷属することによって、主の証人となる、つまり模範を示すのです。主は、生活のあらゆる面における主であり、人間の存在の唯一究極の理由です。その後、つまり模範をもってキリストの証人となってはじめて、言葉で教えを説くことができるのです。そして、これがキリストのやり方でした。「イエスが行い、また教え始めて(…)」36。キリストはまず行いによって模範を示し、その後で、神の教えを述べたのです。

 キリストゆえに人々に仕えるには徹底的に人間的になる必要があります。万一私たちの生活が非人間的であれば、神は何を建てることもなさらないでしょう。普通は、無秩序や利己主義、権力などの上には何も建設なさらないからです。皆を理解し、誰とも平和に暮らし、誰の過失も追及せず赦さなければなりません。不正なことを正しいとか、神への侮辱を侮辱ではないとか、悪を善であると言うのではありません。しかし、悪に悪を返すのではなく、明確な教えと善い行いを返す、つまり善をもって悪を制する37ことにしたいのです。このようにすれば、私たちの心と周囲の人々の心はキリストの支配を容易にすることでしょう。

 自らの心に神の愛を抱かず、また神の愛ゆえに人に仕えることをせずに、この世に平和を築こうとする人がいます。しかし、このような仕方で平和をもたらす使命を果たすことなどできるでしょうか。キリストの平和とはキリストのみ国の平和のことです。しかも、わが主のみ国の基礎となるのは聖性への望みと、恩恵を受け入れるための謙遜な心構え、正義にかなった行いに努力を傾け、神がなさるように惜しみなく愛を〈振り撒く〉生活なのです。

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