180

宇宙の主であるキリスト

 ベトレヘムでお生まれになった愛すべき幼子キリストが、宇宙の主であることを考えてみたいと思います。天と地のありとあらゆるものはすべて彼によって創られたのです。キリストは十字架上で血を流すことによって、天と地の間に平和を確立し、すべてを御父との和解に導かれました6。今、キリストは御父の右に座して支配しておられます。白衣を身につけた二位の天使が、主の昇天後に茫然と雲を眺めている使徒たちに言います。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」7。

「わたしによって王は君臨」8する。しかし、王たちやこの世の権力は過ぎ去るのに反して、キリストの王国は「代々限りなく統べ治められ」9、「その支配は永遠に続き、その国は代々に及ぶ」10のです。

 キリストのみ国とは、単なる言い回しでも、修辞上の比喩でもありません。キリストは、人間としても、託身(受肉)においておとりになった体をもって生きておられます。十字架に付けられ、復活された御方は、〈み言葉〉であるペルソナにおいて霊魂と共に、栄光を受けて生きておいでになります。まことの神まことの人であるキリストが、生き、支配しておられるのです。キリストは宇宙の主であり、生きとし生けるものの存在を支えてくださいます。

 それなのにどうして、今、栄光に輝く姿をお現しにならないのでしょうか。なんとなれば、キリストのみ国は、この世にあっても、この世には属していない11からです。イエスはピラトにお答えになりました、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」12。目に見える現世的な権力をメシア(救い主)に求めた人たちは、期待を裏切られました。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」13。

 キリストのみ国とは、真理と正義、すなわち聖霊における平和と喜びであり、人間を救い、歴史が全うされるときに頂点に達する神の働きです。み国の主は天国のいと高き所に座し、人間を最終的に裁くためにおいでになるのです。

 キリストが地上で福音を宣べ伝え始められたとき、政治的な活動方針をお示しにはならず、「悔い改めよ。天の国は近づいた」14と仰せになり、よき福音を宣べ伝えるように弟子たちに命じ15、み国が来ますように16との祈りをもってお願いするようお教えになりました。まず求めなければならないもの17、実にただ一つ必要なこと18、それは、神の国とその正義、聖なる生活なのです。

 私たちの主イエス・キリストが宣べ伝えた救いとは、すべての人々を対象とした招きです。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせた」19。ですから主は、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」20とお教えになったのです。

 キリストの愛の要請に自由に従えば、すなわち、新たに生まれ21、子どものように素直になり22、神から離れさせるものすべてを心から遠ざけるならば23、救われない人はいません。イエスは、言葉だけでなく、行いを望んでおられます24。また、大胆な努力を待っておられるのです。戦う者だけが天の国を継ぐに価する25ものとなることができるからです。

 み国の完成、つまり救いか滅びかを決める最終的な裁きはこの世ではなされません。み国は今、種蒔き26の時期であり、成長しつつある一粒の芥子種27であって、その終わりは、地引網で引き上げる漁にたとえることができます。網が砂浜に引き上げられ、正義を行った人々と悪を働いた人々は分けられてそれぞれの運命に従います28。しかし、私たちがこの世に生きている間の天の国とは、女の人がとって三斗の粉の中に入れると膨らんだパン種29であると言えるでしょう。

 キリストがお教えになるみ国の何たるかを理解できる人なら、すべてをかけてもその国を手に入れようとするはずです。天の国は畑に隠されている宝の如きもので、宝を見出した人は全財産を投げ売ってもそれを手に入れようとするのです30。天の国を得るのは困難なことです。確かに手に入れると保証されている人は誰もいないのですから31。しかし、痛悔の心をもつ人の謙遜な叫びなら、天国の扉を広く大きく開くこともできます。キリストと共に十字架に付けられた悪人の一人は、主に願いました。「『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」32。

この点を別の言語で