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喜びはキリスト信者の財産です。ただ神の怒りをかうと、喜びは隠れてしまいます。罪は利己主義の結果であり、利己主義は悲しみの原因です。ところがそのようなときにも、喜びは心の中で埋れ火のように燃え続けています。神も、御母も私たちのことを決してお忘れにならないことがわかっているからです。痛悔し、心の底から悔い改めて、ゆるしの秘跡を受けて自らを浄めるならば、神は私たちを迎え入れ、罪を赦してくださいます。そして、悲しみは去るのです。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」31。

 この言葉は放蕩息子のたとえの最後を飾る素晴らしい言葉ですが、何度黙想しても飽きることはありません。「見よ。御父は迎えに来られる。あなたを抱きしめ、愛と優しさを示して、衣服と指輸を持ってこさせてくださる。まだ叱責を恐れているあなたに尊厳を回復し、罰を恐れるあなたに口づけを与え、激昂の言葉を恐れるあなたに祝宴を開いてくださるのだ」32。

 神の愛の深さを測り知ることはできません。神を侮辱した者に対してさえ、このように優しくしてくださるのであれば、ましてや至聖なるおとめ・信実なるおとめ・無原罪の御母を称えるためにどれほどのことをなさるでしょうか。

 人間の心はあまりにも狭くしばしば裏切るにも拘わらず、かくも大きな神愛が示されるとすれば、神のみ旨にいささかの抵抗をも示さないマリアの心に対して神がお示しになる愛はいかほどでしょうか。

 神の無限の憐れみを人間の理性で測り知ることのできないことは、典礼にはどのように表れているのでしょうか。典礼は説明するというより歌っています。想像力をいたく刺激し、夢中になって賛美させようとしているのです。「天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」33。「王はあなたの美しさを慕う。(…)王妃は栄光に輝き、進み入る。晴れ着は金糸の織り(…)」34。

 典礼はマリアの言葉を結びにします。偉大な謙遜と最高の栄誉の絡み合うマリアの言葉です。「いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」35。

 いとも甘美なるマリアの御心、地上における道行に力と安全をお与えください。ご自身、私の道となってください。イエス・キリストの愛に導く近道をご存じですから。

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