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隠れた犠牲の秘義

 確かに神は御母を称賛されましたが、地上における生活の中では信仰の明暗や仕事の疲労、苦痛から聖母を免除されなかったのも確かな事実です。群衆の中から一人の女がイエスを称えて突然、「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と叫んだとき、主は、「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」7とお答えになりました。それは、マリアの誠実な「フィアット」8(この身に成りますように)への讃辞、自己を捧げ尽くして「フィアット」の最後の最後まで果たした聖母への讃辞だったのです。ところで聖母の「フィアット」は、大仰な振舞いには表さずに、日々の黙々とした隠れた犠牲のうちに果たされました。

 この事実を黙想すると神のお考えが少しわかるのではないでしょうか。つまり、私たちの生活に超自然の価値があるか否かは、時として想像するように大手柄を立てるか否かにではなく、神のみ旨を忠実に受け入れ、日々の小さな犠牲を寛大な心で捧げるか否かにかかっている、これが神のお考えです。

 神のものであるため、そして神に仕えるためには、人間的な事柄を大切にすることから始めなければなりません。神を見つめつつ社会生活を営み、外見上小さく見える事柄を聖化しなければならないのです。これはマリアの生活でした。恩恵に満ちた御方、神の喜びの対象となった御方、天使と聖人の上に位する御方は、平凡な毎日を過ごしました。聖母は私たちと同じく、喜びと楽しみ、苦しみと涙を感じる心を持っておられたのです。大天使聖ガブリエルから神のお望みを知らされる前のマリアは、永遠の昔から救い主の母に選ばれていることをご存じではなく、自らをしためであると考えていました9。それゆえ、後になって、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」10と深い謙遜の心から認めることができたのです。

 聖マリアの清さと謙遜と寛大は、私たちの惨めさや利己主義と全く対照的であると言えます。この事実に気づいたからには、なんとか聖母に倣いたいという望みが湧き上がって当然ではないでしょうか。聖母と同じく私たちも神に創られた存在です。神が偉大な業を行ってくださるように、忠実であるよう努力するだけでいいのです。私たちがつまらない存在であっても、そんなことは何の妨げにもなりません。神はあまり役に立たないものを選び、それによって神愛の力強さをさらに明白に人々にお示しになるのです11。

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