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「巡り歩いて人々を助け」られた。それほどの善、しかも善だけを振り撒くために、イエスは何をなさったのでしょうか。この問いに答えて、福音書はイエスについてもう一つの伝記を記しています。「両親に仕えてお暮らしになった」16 。不従順・不和・陰口が社会に満ちている今日、特にこの従順の徳を大切にしたいものです。

 私は自由こそかけがえのないものだと考えています。そして自由を愛すればこそ、このキリスト教的な徳である従順を大切にするのです。神の子としての自覚をもち、父である神のみ旨を果たす熱意を持たなければなりません。〈自ら望んで〉神のお望みに従って事を運ぶ、これこそ最も超自然的な理由です。

 私は三十五年以上も前からオプス・デイの精神を自ら実行し、人にも教えよ

 うと努めてきましたが、このオプス・デイの精神のおかげで、個人の自由を理解し愛することができるようになりました。父である神は人々に恩恵を与え、一人ひとりに固有の召命をお与えになりますが、それはちょうど、子どもである私たちを探し求める父親、私たちの弱さをよく知っている父親が、逞しくまた愛情に満ちた腕を伸ばして助けを与えるのと同じです。差し伸べられた手にすがる努力を主は期待しておられます。主は私たちの自由を試すために、私たちの努力を要求なさるのです。最後まで努力を続けるには謙遜にならなければなりません。幼い子どものようになって、祝福された従順を愛し、優しい御父に応えなければならないのです。

 望ましいことは、障害や問題に出遭うことなく主が人の心の中まで安心してお入りになることです。人は〈自分を守り〉、自我に執着する傾向があります。惨めな王国に過ぎなくとも、私たちはとにかく王であろうとします。このように考えると、イエスに助けを求める必要があることを理解できることでしょう。私たちはイエスのおかげで真に自由になり、その結果、神と人々に仕えることができるようになるのです。こうしてのみ、聖パウロの次の言葉の真意を把握することができるのです。「今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」17。

 自己愛の傾きは死に絶えることなく、誘惑もいろいろな形で襲ってきますから、警戒しなければなりません。神のみ旨は鳴り物入りで示されるのではありませんから、み旨に従うときには信仰の行為を実行するよう要求されます。時折、良心の奥の方で響くだけの小さな声で主はご自分のみ旨をお示しになります。ですから、その声を聞き分けて忠実に従うために、注意深く耳を傾けなければなりません。

 大抵の場合は、人々を通してお話しになります。ところが、その人の欠点に気づいたり、その人はよく物事を弁えているのだろうか、問題に精通しているのだろうか、などと考えたりするならば、従わなくてもよいのではないかと考えることになります。

 これらすべてに超自然の意味があると言えます。神は盲目的な従順を強制なさるのではなく、理性的な従順をお望みだからです。それぞれが理性の光を使って人々を助ける責任があることを知らなければなりません。しかし、まず自分自身に対して正直になりましょう。自己を動かすのは真理への愛か、あるいは自我や自己の判断への執着ではないか、いつも糾明することにしましょう。見解の相違のために人々から孤立したり、兄弟との一致や交流を断ち切ったりすることがあれば、それこそ神の精神に沿って行動していないことを示す明らかな証拠です。

 従うためには謙遜でなければならないことを忘れないようにしましょう。もう一度、キリストの模範を見ましょう。イエスは従われます。ヨセフとマリアに従われるのです。神は従うために、人間に従うために、地上にお降りになったのです。私たちの母である聖マリア ― 聖母に優るのは神おひとりです ― と全く清らかな聖ヨセフ。二人共、完全な被造物ですが、あくまで被造物です。ところが、神であるイエスが彼らに従われたのです。神を愛さなければなりません。そうすれば、神のみ旨を愛し、その呼びかけに応える望みが湧いてくるでしょう。神からの呼びかけは、身分上の義務、職業、仕事、家庭、人との付き合いとか、自分や隣人の苦しみ、友情、善いこと・正しいことをする希望、など日常生活の義務を通して示されます。

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