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先ほどナインの出来事を思い出しましたが、福音書には同じような場面が数多くありますから、別のところを引用することもできます。これらの話は感動を呼び起こしてきました。また、いつになっても同じ効果を与えることでしょう。人として同情するイエスの真心からの行いであり、主の偉大な愛を特に明らかにする話だからです。イエスの聖心は託身(受肉)された神の聖心、私たちと共においでになる神・インマヌエルの聖心です。

「キリストに一致する教会は、傷ついた聖心から誕生する」37。その広く寛大な聖心から命が伝わってきます。神が私たちの中でお働きになる秘跡、キリストの救いの力にあずからせてくださる秘跡について、たとえ簡単にでも、思い出さなければならないでしょう。感謝の心を込めて、聖体の秘跡と十字架上の聖なる犠牲、そして、ごミサにおける犠牲の絶えざる現在化(現実化)を思い出さないわけにはいきません。イエスは自らを食物としてお与えになります。イエス・キリストがおいでになったのですべては変わりました。心を満たし、行いと考えと思いに影響を与える力、聖霊の助けが私たちのうちに現れるのです。キリスト信者にとってキリストの聖心は平和であります。

 主が要求なさる依託の基礎となるのは、私たちが有する小さい望みや弱い力ではなく、第一に、人となった神の聖心の愛が得てくださった恩恵です。そうであるからこそ、意気消沈したり、落胆したりせずに、天においでになる御父の子に相応しく、内的生活に堅忍できるのみならず、また堅忍する義務があるのです。平凡な生活や単純な些事や日常生活を取り巻くいつも変わらない環境において、キリスト信者がどのような態度で、信仰・希望・愛の徳を実行に移していくか考えてくだされば嬉しく思います。神の助けを頼りに行動する人の真髄は、そういう生活の中にあり、また、対神徳を実行することにこそ心の平和が見出されるからなのです。

 以上がキリストの平和、聖心がもたらす平和の結果です。繰り返して申し上げますが、人々に対するイエスの愛は、神の秘義の、つまり御父と聖霊に対する御子の計り知れない深い愛の一面であるからです。御父と御子の愛の絆である聖霊は、〈み言葉〉のうちに人間の心を見出されます。

 このように信仰の中心的な秘義について考えると、どうしても知性の限界と啓示の偉大さに気づかないわけにはいきません。しかし、たとえ信仰の真理を完全に理解することができず、真理を前にして理性が驚嘆するほかはないとしても、謙遜に、固く信じます。キリストの証言があるので、これが真理であると確信できるのです。イエスの聖心の愛を通して、三位一体の神の愛がすべての人々の上に注がれることを確信できるのです。

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