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キリストの聖心への正しい信心

 イエスの聖心という言葉がもつ豊かな意味を心に留めておきましょう。人間の心について話すとき、気持ちを指すだけではなく、望み、愛し、人と接する本人の全人格を考えているのです。人間に神的な事柄を理解させるために聖書が用いる表現法、つまり人間的な表現法によると、心とは考えや言葉や行いの縮図であり根源であると言われます。それゆえ人の値打ちは、その人の心の豊かさによって決まるとも言いかえることができます。

 喜びは心で感じるものです、「わたしの心は救いに喜び躍り」12と。そして痛悔も「心は胸の中で蝋のように溶ける」13、神の賛美についても「心に湧き出る美しい言葉、わたしの作る詩を、王の前で歌おう」14。主に耳を傾ける決心も「わたしは心を確かにします」15と。また、愛ゆえに見張りを続けるのも心です。「眠っていても、わたしの心は目覚めていました」16。さらに、疑いや恐れも心から出ます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」17。

 心は感じるのみでなく、知ること、そして理解することもできます。神の法は心に受け18、心に刻み込まれる19のです。聖書はまた、「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」20と付け加えています。主は律法学士たちを、「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか」21と非難なさいました。そして、人間が犯しうる罪を要約して、次のように仰せになったのです。「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである」22と。

 聖書が心という言葉を使うときは、感動や涙をもたらす一時的な感情のことを言っているのではありません。聖書が心と言うとき、その心とは、イエス・キリストご自身がお示しになったように、善であると考えるものに霊魂と体をもって向かっていく、人格そのものに言及しているのです。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」23。

 それゆえ今、イエスの聖心について考えるということは、神の愛が確かなものであること、また神は本当にご自分をお与えになったことを明らかにすることです。聖心への信心を勧めるとは、自己の全存在をあげて、つまり、魂と感情、思いと言葉と行い、仕事と喜びを伴う全人格を込めて、〈イエス全体〉に向かえと勧めることなのです。

 イエスの聖心への正しい信心があれば、神を知り、自分自身を知ること、そして、私たちを元気づけ、教え、導くイエスを眺めて、イエスの元へと駆け寄る態度に現れてくるはずです。完全な人間ではないので仕方ないとは言え、託身(受肉)された神に気づかない人がいるとすれば、そのような人が持つ浅薄な態度こそ聖心への信心と相容れないと言えるでしょう。

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