159

キリスト教的楽観

 時には、このようなことはすべて美しく立派であるが、実現不可能な夢に等しいと考える誘惑に襲われるかも知れません。しかし、信仰と希望を新たにすることについて考えたばかりです。私たちの夢は神の素晴らしい働きによってことごとく実現されるという絶対的な確信を持ち、毅然として踏みとどまりましょう。ただし、そのためには、希望というキリスト教的徳をしっかりと身に着けなければなりません。

 主が毎日司祭の手の中に降りて来られるという驚くべき奇跡、目前で実現する奇跡に慣れてしまっては大変です。イエスは私たちが目覚めているよう望んでおられます。主の力の偉大さに気づくために、また、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」29。すなわち、あなた方が効果的に働き、人々を神の方へ引き寄せることができるようにという主の約束を再び聞くためなのです。ですから、主の言葉に信頼しなければなりません。舟に乗って櫂を操り、帆をあげて、キリストが遺産として残された世界という海に漕ぎ出すのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」30。

 キリストが心の中に灯された使徒的熱意を、偽りの謙遜によって冷ましたり、失ったりしてはなりません。私たちが無力で哀れな存在であることは事実ですが、主が私たちの過ちをご存じの上でお呼びになったことも事実なのです。人間の限界や弱さ、不完全、罪への傾きなどが、神の慈悲深い目に留まらないことはあり得ません。けれども、主は戦いを要求し、欠点を認めるよう求めておられます、おじけづくためではなく、痛悔して自己改善の望みを強めるために。

 さらに、道具にすぎない自分を常に自覚しているべきです。「ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」31。私たちが伝えるべき教えや使信には、固有の豊かさ、無限の豊かさが備わっていますが、それを付与したのは私たちではなく、キリストであります。救いの業を続け、世の贖いを実現しておられるのは神ご自身なのです。

この点を別の言語で