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今日の祝日には、世界中至るところで信者が聖体行列に加わります。主はホスチアに隠れて、かつての地上での生活のときのように、通りや広場を通り抜け、主に会いたいと望む人々を待ち受け、主を探し求めない人々には偶然会ったようなふりをされます。このようにイエスは、〈ご自分の人々の間〉に、お現れになるのです。主のこの呼びかけに対してどう応えればよいのでしょうか。

 愛の外的表現は、心から生まれなければならず、また、信者らしい振舞いとなって継続しなければなりません。主の御体を拝領して新たにされたのであれば、その事実を行いに表さなければならないのです。私たちは心から平和と献身と奉仕を望まなければならず、私たちの言葉は、人を慰め、助ける言葉でなければなりませんが、特に神の光を人に伝えることができるよう、真実にして明白かつ適切であるべきです。そして振舞いは、主の業や生活を想起させるもの、つまり、「キリストの良い香り」15を振り撒く、首尾一貫した、的確で効果的なものでなければならないのです。

 聖体行列によって、キリストは津々浦々に来てくださいます。せっかくキリストが来られるのですから、その日限りの行事で終えてしまったり、聞いては忘れ去る騒音であったりしては残念なことです。イエスがお通りになるとき、日常の些細な事柄にも主を見つけるべきことを思い起こしましょう。この木曜日の荘厳な行列とともに、黙々とした、慎ましい日常生活という行列がなければなりません。信者は人々と変わらない毎日を送りますが、神的使命と信仰を受ける幸運に恵まれて、再び地上に主の指針を告げ知らせなければならないのです。私たちが過失や惨めさや罪から解放されることはないでしょう。しかし神は人々と共においでになります。わたしたちは主が絶えず人々の傍らをお通りになることができるよう主の道具の働きをしなければなりません。

 聖体を愛する心をくださるように、また、主との個人的な交わりが喜びや落ち着き、正義への渇きとなって表れるよう、主にお願いしたいものです。そして人々がもっと容易にキリストを認めうるよう援助し、人々の活動の頂点にキリストを据えるべく力を尽くしたいと思うのです。そうすれば、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもと引き寄せよう」16というキリストの約束が実現するのです。

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