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言葉とパンにおけるイエスとの交わり

 イエスは祭壇のいとも聖なる秘跡に隠れておられます。私たちが敢えて主と交わり、主と一つになるために、イエスは私たちの糧となってくださったのです。「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる」11と言われましたが、キリスト信者には何もできないと決めつけられたのでも、困難に困難を重ねてキリストを探し求めるよう要求されたのでもありません。私たちがいつでも主に近づくことができるようにと、人々の間に留まってくださったのです。

 ミサ聖祭の犠牲のために祭壇の前に集うとき、聖体顕示台に安置された聖体を眺めて黙想するとき、あるいは聖櫃の中に隠れておられる主を礼拝するとき、再び信仰を燃え立たせ、人々の傍におられる主の新たな現存について考え、神の優しさと愛の深さに心打たれることでしょう。

 「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」12。初代信者の生活について、聖書にはこのように記されてあります。信者たちは、使徒たちの信仰と完全な一致を保ち、聖体にあずかり、心をひとつにして祈っていました。信仰とパンと言葉における集いだったのです。

 聖体は人々の霊魂におけるイエスの現存と世界を支える力の保証であり、世の終わりに、父である神、子である神、聖霊なる神、つまり唯一の神の至聖なる三位一体の玉座、天の住家に永遠に住まわせようという、救いの約束の確かな保証でもあります。キリストご自身と、パンとぶどう酒の外観の下に実際に現存なさるイエスを信じるなら、私たちの全信仰を表明することになるのです。

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