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聖霊と交わる

 聖霊に従って生きるとは、信仰・希望・愛をもって生きることにほかなりません。言い換えれば、神が私たちをご自分の所有物とされ、私たちの心を根本的に変えて神に相応しくされるにお任せすることなのです。堅固で円熟したキリスト信者の生活とは、神の恩恵が成長するおかげであって、一朝一夕にして成就できるものではありません。使徒言行録には、初代のキリスト信者について、次のように簡潔ですが、意味の深い言葉が記してあります。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」25。

 これこそ、初代教会の人々の生活であり、私たちの生活でなければならないのです。信仰の教えに精通するまで黙想すること、ご聖体においてキリストと出会うこと、匿名の祈りではなく、神と、顔と顔を合わせた個人的な対話をすること、私たちの生活は根本的にこのような内容を持たなければなりません。仮にそれらが欠けていたとしても、博学な考察や、多かれ少なかれ充実した活動や信心の業や習慣はあることでしょう。しかし真のキリスト教的な生活はあり得ません。キリストヘの同化はなく、救いのみ業にも効果的にあずかっていないからなのです。

 すべての人は等しく聖化に召されているので、この教えはすべてのキリスト信者のための教えであります。福音の教えを少しだけ実行すればよいというような、二流のキリスト信者など存在しないからです。皆、同じ洗礼を受けました。神の賜物や各々の状況が、文字通り種々様々であったとしても、神の賜物を分配する聖霊は一つであり、信仰もひとつ、希望もひとつ、愛もひとつなのです。

 従って、使徒の次の言葉は私たちに向けられたものと考えることができます。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」26。この言葉を神との今以上に個人的で直接的な交わりへの招きと考えることができます。残念なことに、一部のキリスト信者にとって慰め主は〈知られざる御者〉です。その名を口にしても唯一の神の三つのペルソナの一つであるお方であると理解していません。聖霊なる神と話し、その方によって生きているとは言えないのです。

 典礼を通して教会が教えているように、たゆみなく、信頼をもって素直に聖霊と交わらなければなりません。そうすれば私たちの主をより深く知り、同時にキリスト信者に与えられた計り知れない賜物についても、もっと完全に理解できることでしょう。前に述べた神の生命への参与や、神化の意味がいかに偉大で、いかに真実であるかも深く理解できることでしょう。

 なぜなら、「聖霊とは、ご自分が神に無縁な存在であるかのように、私たちの中に神の本質を描きだす画家ではない。神の似姿を私たちに与えるのはこのような方法によるのではなく、神であり神から発出される聖霊ご自身が、それを受ける心に、ろうに印が押されるように、ご自分を刻みつけられるのである。このように、聖霊がご自分を伝え、ご自分の似姿を与えることによって、神の美しさに相応しい本性を人間に回復させ、再び神の似姿にするのである」27。

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