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聖霊の賜物の中でも、すべてのキリスト信者にとって特に必要なものが一つあると言えるでしょう。それは上智の賜物です。上智の賜物によって、神を知り味わうにつれ、この世の事柄を正しく判断できるからです。信仰に一致した生活をしているなら、周囲を眺め、世界的・歴史的事件に思いを巡らせるとき、イエス・キリストのあの憐れみの心が私たちにも伝わってくることでしょう。「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」21。

 キリスト信者は人類の持っているすべてのよいものに気づき、清らかな喜びを評価し、現世の理想や望みに参与するのです。これらすべてを心の奥底に感じ、深く共鳴し、共に生きようとするはずです。信者なら、誰よりも人の心の深遠さをよく知っているからです。

 キリスト教の信仰は、心を小さくするものでも、気高い衝動をそぐものでもありません。気高い衝動や心の有する真実で正確な意義を明らかにすることによって、それらをさらに大きく育てるのが信仰であります。私たちはありきたりの幸福に運命づけられているのではありません。神の深奥の生命にあずかり、父である神・子である神・聖霊なる神を、三位におけるご一体の神として知り愛すると同時に、すべての天使とすべての人々を知り、愛するよう召されているからです。

 キリスト教の信仰は非常に大胆であります。人間の本性の価値と尊厳を称揚し、人間を超自然的な次元まで高める恩恵によって神の子の尊厳に達することができるように創造されたと宣言するのです。これは父である神の救世の約束に基づき、キリストの御血によって実証され、聖霊の絶えざる働きかけによって再確認されて可能となったのでなければ、到底信じえないほど大胆な宣言であると言えます。

 私たちは信仰によって生き、信仰によって成長しなければなりません。そして遂には、東方教会の偉大な博士の一人が何世紀も前に言った言葉が、信者一人ひとりの言葉とならなければなりません。「清らかで透明な物体が光線を受けると燦然と輝き光を放つように、聖霊によって導かれ照らされた霊魂もまた自ら聖となり、人々を恩恵の光で照らさなければならない。未来についての知識と秘義を知ること、隠された真理を理解すること、賜物の分配、天国での市民権、天使たちとの語り合い、これらはすべて聖霊から出るものである。終わることのない喜び、神における堅忍、神と似たものになること、考えられるものの中で最も崇高なことすなわち神になること、これらも聖霊に由来するものである」22。

 人間の尊厳、特に恩恵により神の子となった人間の偉大な尊厳を自覚すると、その自覚は信者の心の中で謙遜と一体となります。救いと生命を得るのは人間の力によるのではなく、神のご厚意によるものだからです。これは決して忘れてはならない真実です。もしこの事実を忘れ去ると、〈神化〉の意味が誤解され、神化は傲慢や僣越に変わってしまい、遅かれ早かれ自己の弱さや惨めさを経験して霊的に倒れてしまうことでしょう。

 聖アウグスチヌスは次のように自問自答しています。「自分は聖人であると敢えて言えるだろうか。聖化するものを聖人と考えて、誰も私を聖化する必要がないと言えば、私は傲慢で偽り者である。しかし、『神であるわたしが聖であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい』とレビ記に書かれている意味において、聖化される人を聖人と解釈するならば、地の果てに住む人間であってもキリストの御体の一部であるから、その頭と共に頭の下で大胆に、私は聖人であると言える」23。

 三位一体の神の第三のペルソナを愛し、心の底で励まし叱責する神の霊感に耳を傾けましょう。心を照らす光をたよりにして、地上の道を歩みましょう。希望の神が私たちを平和で満たし、聖霊の力によって希望をますます豊かにしてくださることでしょう24。

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