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完全な神・完全な人、イエス・キリスト

 人となった神の御子は、「完全な神であり、完全な人」2であります。この秘義はキリスト信者の心を動かさずにはおきません。あの時の感動は今も続いており、ロレットに戻ってみたいと思っています。「ここにおいてみことばは人となり給えり」と繰り返し唱え、ゆっくりと考え、イエスの幼年時代を思い起こすために行ってみたいのです。

 〈神であり人であるイエス・キリスト〉。この「神の偉大な業」3を黙想し、「地に平和、御心に適う人にあれ」4と平和をもたらすために来られた主に、感謝を捧げなければなりません。平和は、神の善良なご意志に自分の意志を一致させたいと望むすべての人々にもたらされました。金持ちだけにではなく、貧しい人だけに限らず、すべての人々、すべての兄弟にもたらされたのです。みんなイエス・キリストにおいて兄弟であり、神の子であり、キリストの兄弟ですから、キリストの御母は私たちの母でもあります。

 地上には神の子と称される一つの人種しか存在しません。天においでになる私たちの父が教えてくださった言葉を話さなければなりません。イエスが御父と対話なさる言葉、心と知恵から出る言葉、今皆さん方が祈りにお使いになっている言葉です。神の子であることを自覚した観想的な人々、霊的な人々の言葉を使わなければならないのです。その言葉は多くの意志決定、聡明な知性、心からの愛情、正しい生活を送り、善を実行し、幸福と平和に貢献する決心を表します。

 ゆりかごの中の私たちの愛である幼子を見つめ、秘義を前にしていることを知らなければなりません。信仰をもってその秘義を受け入れ、同じく信仰をもって秘義の深い意味を究めなければならないのです。そのためには、キリスト信者としての謙遜な心構えが必要です。神の偉大さを人間の貧弱な概念を用いて説明したりせず、たとえ理解できなくても、この秘義は人生を導く光であることを悟るべきなのです。

 聖ヨハネ・クリゾストムは言っています。「我々人間の本質を有するイエスは、おとめマリアからお生まれになった。この奇跡がいかにして行われたかは知るよしもない。それを知ることに空しい努力を費やすことなく、むしろ神の啓示を謙虚に受け入れるべきである。お明かしにならないことをむやみに詮策してはならないのである」5。このような敬いの態度があれば、理解し、愛することができるでしょう。そして、この秘義も明解な教えとなり、どんな人間的理論よりも、もっと説得力をもつことでしょう。

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