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聖霊降臨は過去の思い出ではない

 聖書が示すこの重大な事実、聖霊降臨は、過去の思い出でもなく、歴史のかなたに残された教会の黄金時代でもありません。聖霊降臨は私たち一人ひとりの持つ惨めさや罪を超えた、今日の、そしてあらゆる時代の教会の現実の姿なのです。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」8と、主は弟子たちに仰せになり、そして、その約束を守られました。つまり、ご復活とご昇天の後、私たちを聖化するために、永遠の御父と一緒に、聖霊をお遣わしになったのです。

 神の力は地の面を照らし出します。キリストの教会は、聖霊の力を得て、常に、すべてにおいて、諸国に対して掲げられたしるしとなり、神の愛と恩恵を人類に伝えるのです9。私たちがどんなに限界だらけの存在であっても、信頼をもって天を眺めれば、喜びに満たされます。神は私たちを愛し、罪から解放してくださるからです。教会における聖霊の存在と働きかけによって神のお与えになる平和と喜び、そして、永遠の至福を垣間見ることができるのです。

 聖霊降臨の日、聖ペトロに近づいた最初の人々のように、私たちも洗礼を受けました。洗礼において父である神は私たちの生命を占有され、キリストの生命に一致させ、聖霊を送ってくださいました。聖書には次のように書いてあります。「救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです」10。

 自分の弱さや失敗の経験、キリスト信者と自称している人々の卑少でこせこせした言動のもたらす、嘆かわしくも悪い手本、一部の使徒的事業の外見上の失敗や混乱、これらすべては人間の限界と罪とを明らかにする現実ではありますが、私たちの信仰の試金石ともなり、神の力はどこにあるのかという疑問や誘惑を誘いだすもとにもなるのです。このような誘惑には断固として抵抗し、もっと純粋に、もっと希望を強めなければなりません。つまり、そのような時こそ、忠誠を固めるべく努力を傾けるときなのです。

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