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 主の昇天の祝日はもう一つのことを教えてくれます。社会にあって使徒職をするよう勧めるキリストは、私たちを天国で待っていてくださるということです。言い換えれば、私たちが愛するこの地上での生活が最終的なものではないと教えているのです。「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです」42。不変の都を探しているからです。

 しかし、神のみ言葉を狭い視野の中で把握しないようにしましょう。来世での慰めのみに希望を託して、この世にいる間、不幸であるようにとはお望みになりません。神は私たちがこの世にあっても幸福であるようにお望みになります。神のみが完全に与え得る来世の幸福が最終的に獲得できるのを期待しながら、この世でも幸せであれ、お望みなのです。

 この世における、超自然的な事柄の観想、恩恵の働きかけ、神の愛の甘美な実りとしての隣人愛などは、天国の〈前金〉であり、日毎に成長するための第一歩であります。キリスト信者は二重生活をすべきではなく、全活動の基礎となりすべてを貫く素朴ながらも強靱な生活の一致を保たなければなりません。

 キリストは待っていてくださいます。「わたしたちの本国は天にあります」43が、私たちは完全にこの世の住人でもあります。困難、不正、無理解のさなかにあっても、神に愛されている子どもとしての喜びと落ち着きを保つことができるからです。神への奉仕に倦まず堅忍しましょう。そうすればキリストの平和部隊、救霊に協力する民が、数において聖性において増加するのを見ることができるでしょう。いつも主と交わり、絶えざる対話を保ちましょう。一日の最初から最後まで、主イエス・キリストに心を寄せて、思いが我らの母なる聖マリアを通してイエスに至り、イエスを通して御父と聖霊に至るように努めましょう。

 しかし、色々努力してもなお、イエスのご昇天が悲しみを心に残すならば、使徒たちがしたように聖母の許へ駆けつけましょう。「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」44。

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