118

パンと言葉におけるイエス・キリストとの交わり

 キリストの秘義を観想することができれば、また、清い眼でイエスを見つめようと努めるならば、イエスに親しく近づくことは、今でも可能であることに気づきます。キリストは道をはっきりと示してくださいました。パンと言葉がその道なのです。ご聖体によって養われ、主のみ教えを学び実行しながら、祈りにおいて主と語りあう道のことです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」6。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」7。

 これは約束以上のこと、愛の極みであり、本物の生活、言い換えれば、恩恵に満たされ、神と親しく交わることのできる生活なのです。「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」8。昇天を前もって告げ知らせるとなれば、最後の晩餐の主の言葉ほど適切な言葉はないでしょう。行かなければならないことをキリストはご存じでした。私たちには理解することはできませんが、ご昇天後、至聖なる三位一体の第三のペルソナ聖霊が、神の愛の新たな溢れとして来られるはずだったからです。「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」9。

 天に昇られてから、主は、人の心を支配し聖化する聖霊を送ってくださいます。慰め主の働きかけを受けるとき、私たちはキリストのお告げになったことが実現したことを知ります。私たちは神の子であり、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」10という言葉が確信できるようになるのです。

 おわかりになるでしょうか。これが心の中での聖三位一体の働きかけなのです。パンと言葉、ご聖体と祈りにおける、キリストとの一致に導く恩恵に応えるならば、キリスト信者は誰でも、心の奥深くにお住まいになる神に近づくことができます。教会は、生けるパンを毎日思い起こさせるだけではなく、典礼暦に聖木曜日とご聖体の祝日という二大祝日を定めました。今日、ご昇天を祝うにあたって、イエスとの語らいに心を向け、注意深く主の言葉に耳を傾けましよう。

この点を別の言語で