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私たちの信仰は、神を信じ、神と絶えず対話を保つよう、生き生きとしていなければなりません。キリスト信者の生活は、四六時中、神の現存を保つ絶えざる祈りの生活であるべきです。キリスト信者は決して孤独ではありません。天におられ、私たちと共におられる神との絶え間ない交わりの中に生きているからです。

 使徒聖パウロは、「絶えず祈りなさい」37と命じています。この使徒の戒めを思い起こして、アレクサンドリアのクレメンスは、次のように述べています。「他の人々のように特定の日だけではなく、一生の間、絶えずあらゆる方法を用いて、み言葉を救い主として王として認め、さらにみ言葉を通して御父を賛美し、礼拝するよう命じられている」38。

 一日の仕事の間、わがままな傾きに克つ瞬間、友情の喜びを感じるとき、このような時には、キリスト信者はいつも神と出会うことでしょう。キリストを通して聖霊において、キリスト信者は父である神との親しい交わりに近づき、神の王国を求めて道を歩み続けるのです。その王国はこの世のものではありませんが、この世に始まり、この世で準備されるのです。

 言葉とパンにおいて、聖体と祈りにおいて、キリストと交わらなければなりません。私たちの傍に本当に生きている友として、キリストと交わるのです。それはキリストが復活なさったからです。ヘブライ人への手紙にもある通り、キリストは「永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」39。

 キリスト、復活されたキリストは同僚であり友です。陰の間にしか見えない友ですが、その実在によって私たちの全生活は充実し、来世に至るまで友であってほしいと思う、そのような友なのです。「“霊”と花嫁とが言う。『来てください』。これを聞く者も言うがよい、『来てください』と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る』。アーメン、主イエスよ、来てください」40。

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