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罪を経験しても、それによって、使命を疑うべきではありません。罪を犯すとキリストを認識するのは確かに難しくなります。ですから、自己の惨めさを正面から見つめ、浄化に努めなければなりません。神は現世での悪に対する完全な勝利を私たちに約束されず、ただ戦うことだけを望んでおられます。「わたしの恵みはあなたに十分である」34。高ぶらないように与えられた棘を退けてくださいと祈った聖パウロに対する神のお答えはこうだったのです。

 神の力は私たちの弱さの中に現れ、地上を旅する間は決して完全な勝利は得られないと知っていても自己の欠点と戦うようにと、私たちを励ましておられます。キリスト信者の生活は始めることであり、毎日はやり直しの連続なのです。

 キリストの十字架とそのご死去にあずかるならば、キリストは私たちの中で蘇られます。キリストの十字架と奉献と犠牲を愛さなければなりません。キリスト信者の楽観主義とは甘ったるいものではなく、また、万事うまく運ぶだろうという人間的な安心でもありません。それは、自由の自覚と恩恵への信仰に根拠をおく楽観主義、神の召し出しに応えるべく努力するように私たちを促し、駆り立てる楽観主義なのです。

 私たちの惨めさにも拘わらずというのではなく、ある意味でその惨めさを通して、つまり肉体と土から成っている人間としての私たちの生活を通してキリストが明らかにされます。絶えざる奉仕に自己を急き立てながら、人々のため惜しまず自己を捧げる努力、わがままを抑える努力、清い心でありたいと望む愛を実行する努力、よりよくなろうとする努力においてキリストが証明されるのです。

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