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人間の作り出す個人的・社会的不正を前にして、もともとキリスト的な心を持っている人29の感じる、我慢できないもどかしさや苦悩、焦燥感はよく理解できます。何世紀にもわたる人類の共存生活にも拘わらず、目があるのに見ない人、心があっても愛さない人々は、まだまだ憎悪や破壊、狂気の沙汰をやめようとしない状態にあります。

 この世の富は少数の人々の間で分配され、文化財も一部の人が握っています。そしてそれ以外のところには、食べ物と知識への飢えがあるばかりです。人間の生活は神から出たもので聖なるはずですが、実際には、統計表の項目とかその数字としてしか扱われていないのです。このような現状を眺めると、先に述べたもどかしさがわかり、それに共感を覚えます。すると、これが動機となって、〈新しい愛の掟〉を実行するよう絶えず私たちに誘いかけておられるキリストの方に視線を向けるようになるのです。

 日常生活のいろいろな出来事から、神の意向を悟ることができますが、同時に人々を愛し人々のために献身しなければならないことも理解できます。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』。すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか』。そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』」30。

 兄弟である人々を見て、私たちとの出会いを求めて来られるキリストに気づかなければなりません。誰の生活であっても、決して孤立したものではなく、周囲の人々の生活と密接に結びついています。どんな人もばらばらに分かれた一行の詩ではなく、皆が〈神の詩〉の一部を構成しています。私たちの自由意志に基づいた協力を得て、神はそれを書き上げて行かれるのです。

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