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〈キリストは生きておられる〉。これは信仰の中心をなす偉大な真理であります。十字架上で死去されたイエスは、復活され、闇の力と苦痛と苦悩に対して勝利をかち取られたのです。「恐れることはない」― 天使はこう呼びかけて、墓にかけつけた婦人たちに挨拶しました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」1、「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう」2。

 復活節は喜びの季節であります。しかもその喜びは、復活節の間だけでなく、常に信者の心にある喜びなのです。なぜならキリストは、美しい思い出と素晴らしい模範を残して行ってしまった過去の人物ではなく、今も生きる御方であるからです。

 生きておられるキリスト。イエスは私たちと共にいてくださる神、インマヌエルなのです。神はご自分の民をお見捨てにならないことが、キリストの復活によって明らかになりました。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」3と主は約束してくださいましたが、今その約束は果たされました。神はおも人の子との交流を楽しみにしておられるのです4。

 〈キリストは教会の中に生きておられる〉。「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」5。すべて神のご計画通りでした。十字架上の死を遂げることによって、イエスは真理と生命の霊を与えてくださいました。キリストは、秘跡と典礼、宣教、教会の全活動を通して、教会と共にいてくださるのです。

 特に、毎日ご自分をお与えになる聖体の秘跡において、キリストは私たちと共におられます。だからこそ、ミサ聖祭はキリスト信者の生活の中心であり拠り所なのです。すべてのミサ聖祭に、キリストの頭と体、つまり全キリストが現存されます。「キリストによって、キリストと共に、キリストにおいて」。キリストは道であり仲介者です。キリストにはすべてが見出されます。キリストと一緒でなければ、私たちの生活は空しくなることでしょう。イエス・キリストにおいてこそ、み教えに従って「我等の父よ」と敢えて祈ることができ、天と地の主を恐れずに父と呼ぶことができるのです。

 聖なるホスチアに現存される生けるイエスは、この世におけるイエスの現存の保証・根拠・完成にほかならないのです。

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