神の子の改心

1952年3月2日 四旬節第一主日


痛悔と浄化、それに改心の時である四旬節が始まりました。しかし、四旬節の目標は容易に実現できるわけではありません。キリスト教は安逸をむさぼる道ではありませんから、歳月の経つに任せるだけでは教会の一員として満足できる状態とは言えないのです。キリスト信者の一生のうち、最初の改心には計り知れない意義があります。その一度限りの最初の改心のとき、主のお望みになることがすべてはっきりとわかったことを憶えていらっしゃるでしょう。けれども、最初の改心よりも、もっと大切でもっと難しい仕事があるのです。それはつまり、連続的な改心のことです。相続く改心において神の恩恵が与えられますが、その恩恵の働きを容易にするためには、若々しい心を維持し、主のみ名をお呼びし、主の仰せに耳を傾け、自己の過ちを発見し、主に赦しを願うことが必要となります。

 日曜日の典礼を通して主が告げておられます。「彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え」1ようと。主はこんなにも私たちのことを思っていてくださるのです。常に耳を傾け、私たちの話しかけを待っていてくださいます。「打ち砕かれ悔いる心」2でお願いすれば、時を選ばずいつも聞き入れてくださるのです。そして私たちの心の中に自己を浄化する決意ができている今こそ、その時なのではないでしょうか。

 主は願いをお聞き入れになりますが、それは、交流を求めて私たちの生活に入り込み、私たちを悪から解放し、善で満たしてくださるためなのです。主が「彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう」3と言われるときの「彼」とは私たちのことなのです。そこで私たちは誉れを受ける希望に満たされ、誉れに向かう道、つまり内的生活への第一歩を踏みだすことになります。なぜなら、栄光への希望のおかげで信仰は強められ、愛徳が刺激され、その結果、私たちを父である神の似姿にする対神徳を実行することになるからなのです。

 これ以上によい四旬節の迎え方があるでしょうか。再び信仰と希望と愛の徳の実行に励みましょう。信・望・愛の三徳こそ痛悔の心と浄化の望みの源であるからです。四旬節とは今迄以上に寛大な犠牲の実行に励むだけの機会ではありません。もし外的に犠牲を実行することだけが四旬節の目的であると考えてしまうと、キリスト信者の生活における四旬節の深い意味を見逃してしまうことになります。外部に表れる行いは信仰と希望と愛の徳の結実であるべきですから。

キリスト者の冒険

「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る」4。神のご保護のもとに住み、神と共に生きること ― これはキリスト信者の冒険なのです。神が耳を傾けてくださること、私たちが近寄るのを待ちかねておられることを固く信じなければなりません。そうすれば心が平安に満たされることでしょう。しかし、神と共に生きようとすれば、ある種の危険を冒さなければなりません。神は部分だけでは満足なさらず、すべてを要求なさるからです。もう少しでも神に近づきたいと思えば、改心して再び自らを正し、心に芽生える聖なる望みと神の勧めにもっと注意して聞き入り、実行する覚悟を持たなければなりません。

 キリストの教えをすべて完全に実行しようと、初めて決意を固めてから今日まで、主のみ言葉に忠実に従う道にかなり深く分け入ったことでしょう。しかし、まだ取り組むべきことがたくさん残っていることも確かではないでしょうか。特に、高慢な心が幅を利かせているのではないでしょうか。利己主義が影をひそめ、私たちの内にキリストが成長できるためには、再び生活を一新し、より完全・忠実に、また、より深い謙遜を身につける決意が何にもまして必要なのです。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」5からです。

 歩みを止めるわけにはいきません。聖パウロが示す目標に向かって前進しなければならないのです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」6。それは、キリストと一致し、聖性に達するという高く高貴な目標のことなのです。洗礼の秘跡において心の中に生まれたこの神的な生命に相応しい道はこれ以外にはありません。前進とは聖性に進歩することであって、信仰生活の正常な成長を妨げれば後退を意味します。神の愛という火が日毎に成長し心に燃え上がるためには、燃料の補給が必要なのです。新たな火種を加えていってこそ、火を絶やすことなく維持できるのです。少しずつ火を大きくする努力を続けないと、神の愛は消えてしまうことでしょう。

 聖アウグスチヌスの次の言葉を考えてみましょう。「もう十分だ、言えば、あなたは下り坂にいる。常に前方を見よ。常に歩め。常に前進せよ。同じところに留まってはならない。後退してはならない。横道に逸れてはならない」7。

 四旬節を迎えた私たちは、次のような根本的な質問に答えなければなりません。「キリストに対してより忠実になっていますか」、「聖人になる望みは強まってきましたか」、「日常生活・仕事・隣人愛において使徒職への熱意は大きくなってきましたか」。

 言葉に表す必要はありません。各自この問いかけに答えを出してみれば、キリストが心の中にお住まいになることができるために、そして私たちの行いにキリストの像がくっきりと映し出されるために、新たな変化の必要なことがわかるでしょう。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」8。キリストはまたまた語りかけておられます。日々の十字架だと耳もとで囁いておられるのです。「迫害の時代や殉教の可能性のある時代だけでなく、どんな事情のもとにあっても、どんな仕事をし、何を考えていても、何を言っている時でも、古き姿を捨てて現在の私たちを宣言しよう。私たちはキリストにおいて生まれ変わったのである」9と聖イエロニモは書いています。

 聖パウロも同じことを言っています。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。― 光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。― 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」10。

 改心は一瞬の問題ですが、聖化は全生涯にわたる事業です。神が心の内に蒔いてくださった愛の種が成長し、行いの実を結ぶことを主は望んでおられます。私たちもいつも主のお喜びになる実を結びたいと願っています。ですから、何度も再出発を試み、私たちの生活に新たな場面が登場する毎に、あの最初の改心の時の力と光を再び自分のものにする覚悟が不可欠となるのです。こう考えてくると、さらに深く主を知り、自己のありのままの姿をさらによく自覚するためには、主に援助を願い、深い自己反省によって自己を整える必要のあることが理解できると思います。生活を一新しようと思えばこれ以外に道はないのです。

今は好機

 あなた方が心の扉を閉ざさない限り、この四旬節の間に神は心を恩恵で満たしてくださいますから、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」11とあなた方に勧めます。善い心構えをもち真摯な気持ちで生活を改め、神の恩恵を弄ぶことのないようにしなければならないのです。

 キリスト信者を動かすのはキリストに顕れた神の愛であり、この愛の教えに従って私たちはすべての人・全被造物を愛します。ですから、恐れについて話すのではなく、責任感や真剣な態度について話さなければならないと思います。聖パウロは、「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません」12と警告しています。

 諺にあるように、大天使聖ミカエルと悪魔の双方にろうそくを灯すような生活をすべきではありません。悪魔のためのろうそくを消してしまわなければならないのです。精根尽き果てるまで挺身して主に奉仕しなければならないのです。聖人になりたいという真剣な望みを持ち、素直に自分を主のみ腕に委ねれば、何もかも巧くいくはずです。神はいつも恩恵を与えようと待ち構えておられますが、四旬節中は、私たちの新たな改心のため、そしてキリスト信者としての生活を向上させるために特に多くの恩恵を与えてくださるのです。

 今年の四旬節をただ典礼暦年の一季節が巡ってきただけだと考えてはなりません。神の助けを受け入れるべき唯一無二の時なのです。イエスは私たちの傍を〈お通り〉になります。そして私たちが、今日・すぐに生活を改めるのを待ち望んでおられます。

「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」13。今こそ絶好の機会、救いの日になり得ると聖書は教えています。またまた善き牧者の愛に満ちた呼び声が聞こえてきます。「わたしはあなたの名を呼ぶ」14。私たち一人ひとりを名指しで呼んでおられます。愛する者同士が使う親しみ深い呼び名で呼んでおられるのです。私たちに向けられたイエスの優しい愛は言葉に表すことなどできないほどです。

 素晴らしい神の愛について一緒に考えてみましょう。主は、わざわざ道の途中まで出迎えてくださいます。私たちが主を見過すことのないように待っていてくださるのです。そして、一人ひとりをお呼びになり、私たちに関係のある色々なことをお話しになります。私たちに関係のあることは主の関心事でもあるからです。心を揺さぶって痛悔の心を促し、心惜しみなく自己を与えるようにと力を貸してくださいます。そして私たちの心に、忠実になろう、主の弟子と称されるようになろうという希望を芽生えさせてくださるのです。愛情に溢れた叱責にも似た恩恵のこの囁きに気づきさえすれば、自分の罪が原因となってキリストを見ることのできなかったあの時々のことをすぐ思い出すことができるでしょう。キリストは神の御心の中にある、あの尽きることのない愛をもって愛してくださるのです。

 お聴きなさい。また繰り返しておられます。「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」15。主はあなたにご自分の愛と栄光を約束され、時が来ればお与えになります。そして今あなたを呼んでいらっしゃいます。では主に何を差し上げましょう。お通りになるイエスの愛にどうお応えすればよいのでしょうか。

 「今は救いの時である」。善き牧者の呼び声が届きます。「わたしはあなたの名を呼ぶ」、「愛には愛を返す」と言われるように、私たちも、「お呼びになったので参りました」16と答えなければなりません。岩の表面を素通りする水のように、四旬節が私たちの生活に跡形も残さずに過ぎ去ってしまわないよう努力する覚悟ができております。できるだけたくさんの教えを吸収し自己を一新します。心を改め再び主に向かって話しかけます。御身がお望みになるように御身をお愛しします、と。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」17。「まだ自分を愛するために心の一部を残しているのか。あなたの霊や知恵をまだ自分のために残しているのか。『すべてを尽くして』と神は仰せになる。あなたをお創りになった御方はあなたのすべてをお望みなのだ」18。

愛の誓いを立てた限り、神を愛する人に相応しく振る舞わなければなりません。「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています」19。私たちは、何事においても神の奉仕者に適った行動をしなければなりません。主のお望みになるように自己を委ねれば、専門職や仕事、また大小さまざまな人間的な事柄を神的な値打ちのあるものに変えようとする努力においても、主の働きが顕れることでしょう。神の愛があれば、すべては、新しい次元、新しい意味を持ってくるからなのです。

 しかし、神に仕えることは容易な仕事ではないことを、今年の四旬節にも忘れたくありません。今週の日曜日のごミサで朗読される聖パウロの書簡を黙想し、なぜそれが容易なことではないのかを思い出してみましょう。「大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によって(…)」20。

 どのような状況にあっても、一生を通して主が私たちと一緒におられること、私たちは神の子であることを自覚しつつ、神の僕に相応しい振舞いをしなければなりません。生命の中に神的な根が接木されていることをよく自覚し、その自覚に基づいた生活態度を保つ必要があるのです。

 聖パウロの言葉を聞くと喜びに満たされます。この世の直中で、同僚をはじめ多くの人々と、仕事の労苦や喜びを分かち合いつつ生活するキリスト信者の召し出しを、聖パウロの言葉は、いわば列聖しているからです。どのようなことであってもすべて神へ至る道となるのです。いつも神の子らしく、神の僕らしく働くようにと神はお望みになります。

 しかし本当に生活を一新し自己を依託しないなら、日常生活そのものが神的な道になることはないのです。聖パウロは厳しい言葉で警告しています。キリスト信者の生活は難しく危険に満ちている、従って、いつも緊張した生活を送らなければならない、と。ところが、キリスト教を安易安直な道にしようとしたがために、人々はキリスト教そのものを歪めてしまったのです。しかしその反対に、人生に付き物の障害を身にしみて感じつつ生きる信者の深く真剣な生活が、苦悩と圧迫と恐れに満ちたものであると考えるなら、これもまた、真実を曲げることになります。

 キリスト信者は現実主義者であるべきです。しかし、超自然的であると同時に人間的な現実主義であって、苦痛と喜び、自他の苦しみ、自信と困惑、寛大な心と利己主義への傾きなどの生活の綾、生活の色々な微妙な変化をよく自覚していなければなりません。キリスト信者は、不屈の魂と神からいただいた剛毅に支えられて、すべてを知り、すべてに対処すべきなのです。

キリストの誘惑

 四旬節には、イエスが砂漠でお過ごしになった四十日を記念します。その四十日は十字架と復活の栄えにおいて頂点に達する主の宣教生活の準備であったのです。祈りと犠牲の四十日が終わると、キリストの誘惑21の場面が始まります。

 神が悪魔の誘惑を受ける ― これは人間には理解できない神秘に満ちた場面です。しかし、そこに含まれる教えを悟ることができるようにお助けくださいと主に願いつつ黙想することは可能でしょう。

 イエス・キリスト、誘惑を受ける。聖伝の解釈によれば、主はすべてにおいて私たちの模範となるために、敢えて誘惑をお受けになりました。キリストは罪以外において私たちと同じ人となられた22のです。多分、雑草と木の根とわずかな水だけを糧とした四十日間の断食の後で、イエスは空腹を感じられました。生きるものなら感じる空腹を実際に感じられたのです。悪魔が石ころを食物に変えろ、言い寄ったとき、主はご自分の体が必要とする食事をおとりにならないだけでなく、それよりはるかに大きな唆しを拒否なさいました。個人的な問題を解決するために神の力を使うことを拒絶なさったのです。

 福音書を読めば気づくことですが、イエスはご自分の利益のために奇跡をなさったことはありませんでした。水をぶどう酒にお変えになったのも、カナの新郎新婦のためだったのです23。パンと魚を増やされたときも、空腹をかかえた群衆のためだったのです24。長い間ご自分の働きで毎日の糧を得ておられました。ずっと後になって、イスラエルの地を巡り歩かれた時に初めてご自分に従う者たちの援助をお受けになったのです25。

 聖ヨハネは次のような場面を書き記しています。イエスは長い道のりを歩いた後でシカルの井戸にお着きになりました。食物を買うために弟子を村に遣わされましたが、サマリアの女が近づくのをご覧になり、水を所望されました。水を汲むものを持っておられなかったからです26。長旅に疲れを感じられたこともあり、元気を回復するために眠りにつかれたこともありました27。自らを卑しくし、人間の条件を一つ残らずお受け入れになった寛大な主は、困難や努力を避けるために神として有しておられる力を利用なさるようなことはなかったのです。人間としてのご自分の模範を示して、私たちが強く逞しくなり、仕事を愛するよう教えておられるのです。神に自己を委ねたのであれば、人間的であると同時に神的な高貴な心を大切にし、依託の結果として要求されることをもすべて受け入れなさい、と教えておられるのです。

 二つ目の誘惑で悪魔が神殿の頂上から身を投げるように言ったときも、主は神としての力を使うことを拒否なさいました。キリストは虚栄心の満足や華麗なことはお求めになりません。自分が優れていることを示すために神を引き合いに出すという人間にありがちな喜劇を演じることもありません。イエス・キリストは御父のみ旨を果たそうと望んでおられます。しかも時を早めたり、奇跡の時を繰り上げたりせずに、辛い人間の道、十字架に向かう愛すべき道を一歩一歩踏みしめることによって御父のみ旨を果たそうと思っておられるのです。

 三つ目の誘惑にもよく似たことが見られます。悪魔は王国と権力と栄光を提供します。悪魔は、神にのみ帰すべき礼拝を、人間的な野心にまで向けさせようとするのです。つまり、悪魔は自分の前にひざまずいて礼拝する者や偶像の前にひざまずく者どもに安易な生活を約束するのです。しかし主は、唯一にして真である崇拝の対象は神であることを明言し、またご自分が奉仕する意志を持っていることをはっきりさせるために仰せになりました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」28。

イエスのこの態度に倣わなければなりません。生涯を通して、ご自分に属する光栄さえ拒否されたのです。神に相応しい待遇を受ける権利を持っておられたにも拘わらず、奴隷の姿・僕の姿をおとりになりました29。ですから、キリスト信者はすべての光栄を神に帰すべきことを知るのです。また、崇高にして偉大な福音を、人間的な利益を得たり、野望を遂げたりするための道具とすべきではないことがよく理解できるのです。

 イエスから学びましょう。すべての人間的光栄に真っ向から反対するときのイエスの態度は、人類の救済のために託身された神の愛子の偉大な使命と深い関係があります。「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする」30。御父は使命を成就させるためにあらゆる配慮をしてくださるのです。

 キリストに従って完全に神を礼拝する生活を送れば、私たちも主の優しい言葉を受けることでしょう。「彼はわたしを慕う者だから、彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう」31。

イエスは闇の帝王である悪魔を退けられました。すると直ちに光が現れたのです。「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた」32。イエスは試練に耐えられました。聖アンブロジウスが説明するように、主は神として有する力を使うことなく、人として私たちと同じ手段を講じて勝利を得られました。それゆえ、イエスのお受けになった誘惑は正真正銘の誘惑だったのです。もし主が神の力を使って誘惑に打ち勝ったとすれば、それは私たちの模範にはならなかったことでしょう33。

 腹黒い悪魔は、旧約聖書を、歪んだ意向で引用しました。「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる」34と。しかしイエスは御父を試みる誘惑を退け、聖書の章句の真の意味をお示しになります。そして時がくると、忠誠を守ったイエスに報いるために御父のみ使いが仕えに来たのです。

 主イエス・キリストを試みるために悪魔がとった方法について考える必要があります。彼は聖書を援用するのですが、冒涜と思われるほどに意味を歪曲するのです。しかしイエスを欺くことはできません。託身されたみ言葉は、人間の救いのために書き記された神のみ言葉に精通しておられます。ですから、愛によってキリストに一致する人なら聖書の内容が不当に操作されていることにすぐ気づくはずです。悪魔は光を闇に変じようと試みます。つまり、神がお使いになる言葉を使いながら、欺瞞に満ちた解釈を加え、キリスト信者の良心を混乱に陥れようとするのが悪魔の常套手段なのです。しかし私たちはそのような手段を十分承知しています。

 今少し、イエスの生活に介入した天使について考えてみましょう。そうすれば、人間の生活における天使の役割やその使命について、さらに深く理解できることでしょう。教会の聖伝によると、守護の天使は私たちの頼りがいのある友であることがわかります。人々の伴侶として神が守護の天使をお与えくださったのです。ですから守護の天使との交流を保ち、助けを得るようにしなければなりません。

 四旬節を迎えた私たちは、自分が浄化を必要とする哀れな罪人であることを悟りますが、教会はキリストの生涯を黙想させ、四旬節は同時に喜びの季節であると教えます。四旬節は剛毅の時であると共に喜びの時であり、神は常に傍にいてくださるので主の恩恵の欠けることはありません。また、「彼ら(み使い)はあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」35と詩編に歌われる通り、旅を続ける人間の良き忠告者・伴侶として、さらに私たちの興す事業の協力者として天使まで遣わしてくださるのですから、私たちは勇気に満たされることでしょう。

 守護の天使と交わるよう努めなければなりません。今、天使に話しかけてみましょう。四旬節の超自然の水は私の魂を素通りしませんでした。痛悔の心を持っているので、心の奥底まで届きました、と。堆肥場に咲いた一輪の百合の花のように、恩恵のおかげで私たちの惨めさのさなかに芽生えたこのよい心構えを、主のみ許まで運んでくださるよう願いましょう。「大天使聖ミカエル、戦いにおいて我らを守り、悪魔の凶悪なる謀計に勝たしめ給え。天主の彼に命を下し給わんことを伏して願いたてまつる。ああ天軍の総帥、霊魂をそこなわんとてこの世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔を、天主の御力によって地獄に閉じ込め給え」36。

神との父子関係

 戦いに臨んでも死ぬことはないと信じ、信頼に満ちた祈りができるのはなぜでしょうか。それは、いくら感嘆しても感嘆し尽くせない現実、つまり私たちと神との親子関係から生まれる確信のおかげなのです。この四旬節に改心を望んでおられるのは私たちの父であって、独裁的な支配者でも、厳格で無慈悲な裁判官でもありません。私たちの寛大さに欠けた態度や罪や過ちを指摘なさいます。しかしそうなさるのは、罪や過ちから私たちを解放し、私たちを神の友情と愛に相応しいものとするためなのです。神の子であることが自覚できれば、喜んで改心できるはずです。改心とは御父の住まいに立ち返ることですから。

 神の子であることを自覚することこそオプス・デイの精神の基礎であります。人間はみな神の子ですが、子の父に対する態度には色々あります。主は私たちに子に対する愛を示し、ご自分の家、この世の中で生活するご自分の家族の一員にしてくださいました。また、主のものを私たちのものに、私たちのものを主のものとし、私たちが、月を欲しがる子どものように親しみを込めて、信頼しきって願い求めることができるようにもしてくださいました。

 神の子であるなら、子が父に対するように神に近づきます。主に対しては、奴隷のような接し方でも、形だけの儀礼的な尊敬を示すのでもなく、誠実で信頼心に溢れた態度をとらなければならないのです。神は私たちのことを呆れ果てた奴だと憤慨なさることはありません。私たちの度重なる不忠実な行いにうんざりなさることもありません。天におられる私たちの父は、どのような侮辱を受けても、私たちが痛悔の心をもち、赦しを求めて立ち帰る限り赦してくださるのです。私たちの赦しを得たいと望む心を主は予め知っておられ、自ら進んで腕をひろげ恩恵を与えてくださるほど慈悲深い御父なのです。

 天におられる私たちの父の愛を教えるために、神の御子が話してくださった放蕩息子37のたとえを思い出してみれば、私が別に新奇なことを言っているのではないことがおわかりになるでしょう。

「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」38。これは主の言葉なのです。首を抱いてくちづけを浴びせたと書いてあります。いとおしくて仕方がなかったのです。これ以上人間味に溢れた話し方ができるでしょうか。御父である神が私たちに対して抱く愛をこれ以上生き生きと描写することはできないでしょう。

 私たちの方へ走り寄ってきてくださる神を前にして口をつぐんでいるわけにはいきません。聖パウロと共に、「アッバ、父よ」39と呼びかけましょう。宇宙の創造主ではあるが、立派な称号で呼ばれ、その主権に敬意を払って欲しいとはお思いにならないのです。父と呼ばれたい、この呼び名をかみしめて味わって欲しい、お前たちに喜びを与えたい、と言ってくださるのです。

 人間の一生とは、ある意味で、何度も御父のもとに立ち戻ることだと言えます。新たに生活を立て直すという固い決心と痛悔の心をもって、主のお住まいに立ち戻ることなのです。そしてその決心は犠牲と依託に表れるはずです。罪を告白して赦しを受け、キリストを着ることのできるゆるしの秘跡を通して御父のもとに帰り、キリストの兄弟・神の家族の一員となるのです。

 私たちにはそんなにしていただく値打ちはないのですが、放蕩息子の父のように、神が大喜びで迎え入れてくださるのです。心を打ち明けて御父の家をなつかしく思慕するだけでよいのです。恩知らずの私たちであるのに本当にご自分の子にしてくださった神の賜物に驚き、喜びさえすればよいのです。

ところで人間とは異なもので、こんなに素晴らしいことも忘れ去り、これほどの秘義にも慣れてしまいます。この四旬節を機会に、キリスト信者である限り浅薄な生活を送ることはできないのだと肝に銘じたいものです。人々と同じく仕事に没頭し、夢中になり、緊張した毎日を送るキリスト信者は、同時に神にも夢中にならなければならないのです。私たちは神の子なのですから。

 神との親子関係は喜びに満ちた真理であり、慰めに満ちた秘義です。この関係は私たちの霊的生活全般に大きな影響を与えます。神の子であることを自覚することによって天の御父に近づき、御父をよく知り、愛することができ、従って、内的な戦いにも希望が湧き、幼い子どものように単純で素直で信頼に満ちた心を持つことができるようになるからです。しかも、神の子であることを自覚すれば、創造主にして父である神の御手から出た全被造物を、愛と感嘆をもって眺めることができることでしょう。そして、社会にいながら世を愛しつつ観想生活を送ることが可能になるのです。

 四旬節の典礼は、私たちが有するアダムの罪の結果を思い出させます。アダムは神の子に相応しく振る舞わず、神に逆らったのです。しかし、同時に全教会が復活祭の前夜に喜び歌うあの「幸いな罪よ」40という歌も聞こえてきます。

 時が満ちると、神は御独り子をお遣わしになりました。それは、人間に平和をもたらし罪から解放して「わたしたちを神の子となさるため」41だったのです。私たちを神の子とし、罪のくびきから解放して聖三位一体のご生活に参与させるためだったのです。そして、神の子となった新しき人に力が与えられた結果42、神と和睦させて43くださったキリストのもとにすべてを集め44、被造界全体に秩序を回復するという大事業が可能になりました。

 今こそ痛悔の心を起こさなければなりません。しかしすでに見たように、痛悔とは否定的なことを意味しているのではありません。キリストが与えてくださった45神の子の精神をもって四旬節を過ごさなければならないのです。主は、私たちが神に似た者となる希望をもって近づくように呼んでくださいます。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」46、そして、破壊されたものを修復し、失われたものを回復し、罪深い人間が乱した秩序を取り戻し、道から逸れた者を目的地まで導き、全被造物の間にもとの調和・神的な調和を取り戻す神のみ業に謙遜な心でしかも熱心に協力しなさい、と。

人間が神から離れた状態を黙想させる四旬節の典礼は、時として悲痛な調子を帯びてきます。しかし、この悲劇的な調子は四旬節の結論ではありません。結びの言葉は神が述べられます。そして、その言葉とは救い主の愛と慈悲の言葉、従って、神と私たちの親子関係を確認する言葉なのです。それゆえ、今日、聖ヨハネの言葉を繰り返してみましょう。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです」47。私たちは、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」48と書かれているその託身した神の御子の兄弟・神の子となったのです。

 そろそろ結びにしてごミサを続けなければなりません。皆さんの一人ひとりが感謝の祈りを捧げ、主のお望みは何か、どのような決心、どのような心構えをせよとお望みなのかを考えなければなりません。自己を委ね、内的戦いに赴くという超自然的であると同時に人間的な義務に目覚めたあなたに、キリストこそ私たちの模範であることを思い出していただきたいのです。イエスは神でありながら誘惑をお受けになったのですが、それは私たちが勇気を奮い起こして、勝利を確信しつつ戦うことができるためだったのです。イエス・キリストが負け戦をなさることはありません。彼と一緒に戦えば、敗北者になるどころかいつも勝利者に、つまり神のみ旨にかなう子となることができるのです。

 喜びの日々を過ごしたいものです。四旬節の典礼に従って良心の糾明をし、自分の生活を省みるとき、満足できる状態ではないことがわかるのですが、それでも私は喜びで一杯です。なぜなら主が私を再び捜し求めてくださっていること、主は今も私の父であることがわかったからなのです。恩恵の光と恩恵の助けによって、何を焼き尽くすべきか、何を引き抜くべきかを見極め、そのすべてを焼き尽くし捨てなければなりません。まだ主に差し上げていないものは何かを見極め、未練を残さず捧げ尽くさなければならないのです。

 簡単な仕事ではありませんが、はっきりとした道標を頼りにすることができる上に、私たちは神に愛されているのですから、私たちの内にお働きになる聖霊のなさるままに任せ、自己を浄化しましょう。そうすれば、十字架上の神の御子を抱き、キリストと共に復活することができることでしょう。十字架を通れば復活の喜びにあずかることができるからです。

 私たちの母おとめマリア、キリスト信者の助け、罪人の拠り所、あなたの取次ぎによって、御子が聖霊を送ってくださいますように。また力強い歩みを続ける決心が私たちの心に生まれ、初代教会の殉教者の心に平安を与えたあの呼びかけが心の奥底に響きわたりますように。「戻れ。御父がお前を待っておられる」49。

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