王であるキリスト

1970年11月22日 王であるキリストの祝日


典礼暦年も終わりに近づき、まもなく読まれる序唱1にあるように、いけにえであるキリスト・成聖と恩恵の王・正義と愛と平和の王を、祭壇上の犠牲において再び御父に献げます。私たちの主の聖なる人性を考えると、大きな喜びを心に感じることでしょう。主は天地万物の創造主ですが、私たちと同じような生身の心を持った王なのです。しかも、支配を押しつけようとはなさらずに、静かに傷ついた手をお見せになり、僅かな愛を嘆願しておられるからです。

 それなのに、なぜかくも多くの人が知らない顔をするのでしょうか。「我々はこの人を王にいただきたくない」2というひどい抗議が、なぜ人々の口から出るのでしょうか。この世には、イエス・キリストにこのように立ち向かおうとする人々、というよりも、キリストを知らず、その顔の美しさも、その教えの素晴らしさも知らないのですから、正確に言うと、イエス・キリストの幻影に立ち向かおうとする人々が何百万といます。

 こういう悲しい有様をみると、主に償いをしなければならないと感じます。主に反抗する叫びが止まるところを知らず、それも声だけでなくおよそ高尚とは言えない行いを伴ったものであるのを見ると、大声で叫ぶ必要を感じるのです。「キリストは(…)、国を支配されることになっている」3と。

キリストに逆らう

 キリストの支配を潔しとしない人が大勢います。人間観や世界観に関して、習慣や学問、芸術において、あらゆる方法で主に反抗するのです、教会の中でさえも。聖アウグスチヌスが言っています。「キリストを冒瀆する極悪人のことを言っているのではない。事実、舌で冒瀆する人々はあまりいない。しかし、その行いをもって冒瀆する人々のなんと多いことか」4。

 ある者は言葉だけにこだわり、〈王であるキリスト〉という表現にさえ不愉快な顔をします。キリストのみ国と言えば、政治的な意味と混同されるのではないか、あるいは、主の王権を認めれば法も認めなければならないのではないかと考えるからでしょう。彼らは法律嫌いなのです。神の愛に近づくことを望まず、自己愛を満足させる野望だけしか持っていないものですから、深い愛のこもった掟でさえ受け入れないのです。

 私は仕えます、無言のうちに叫ぶように、もう随分前から主が私を急き立てておられます。社会にあって、自然に地味に物静かに依託したい、主の呼びかけに忠実でありたいと望む熱心な心を神が増してくださいますように。心の底からお礼を申し上げ、臣下の祈り、子の祈りを主に捧げましょう。そうすれば、舌と口は乳と蜜に満たされ、主が獲得してくださった自由5、その自由のみ国、神の国に思いを馳せて、甘美な味わいを得ることでしょう。

宇宙の主であるキリスト

 ベトレヘムでお生まれになった愛すべき幼子キリストが、宇宙の主であることを考えてみたいと思います。天と地のありとあらゆるものはすべて彼によって創られたのです。キリストは十字架上で血を流すことによって、天と地の間に平和を確立し、すべてを御父との和解に導かれました6。今、キリストは御父の右に座して支配しておられます。白衣を身につけた二位の天使が、主の昇天後に茫然と雲を眺めている使徒たちに言います。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」7。

「わたしによって王は君臨」8する。しかし、王たちやこの世の権力は過ぎ去るのに反して、キリストの王国は「代々限りなく統べ治められ」9、「その支配は永遠に続き、その国は代々に及ぶ」10のです。

 キリストのみ国とは、単なる言い回しでも、修辞上の比喩でもありません。キリストは、人間としても、託身(受肉)においておとりになった体をもって生きておられます。十字架に付けられ、復活された御方は、〈み言葉〉であるペルソナにおいて霊魂と共に、栄光を受けて生きておいでになります。まことの神まことの人であるキリストが、生き、支配しておられるのです。キリストは宇宙の主であり、生きとし生けるものの存在を支えてくださいます。

 それなのにどうして、今、栄光に輝く姿をお現しにならないのでしょうか。なんとなれば、キリストのみ国は、この世にあっても、この世には属していない11からです。イエスはピラトにお答えになりました、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」12。目に見える現世的な権力をメシア(救い主)に求めた人たちは、期待を裏切られました。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」13。

 キリストのみ国とは、真理と正義、すなわち聖霊における平和と喜びであり、人間を救い、歴史が全うされるときに頂点に達する神の働きです。み国の主は天国のいと高き所に座し、人間を最終的に裁くためにおいでになるのです。

 キリストが地上で福音を宣べ伝え始められたとき、政治的な活動方針をお示しにはならず、「悔い改めよ。天の国は近づいた」14と仰せになり、よき福音を宣べ伝えるように弟子たちに命じ15、み国が来ますように16との祈りをもってお願いするようお教えになりました。まず求めなければならないもの17、実にただ一つ必要なこと18、それは、神の国とその正義、聖なる生活なのです。

 私たちの主イエス・キリストが宣べ伝えた救いとは、すべての人々を対象とした招きです。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせた」19。ですから主は、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」20とお教えになったのです。

 キリストの愛の要請に自由に従えば、すなわち、新たに生まれ21、子どものように素直になり22、神から離れさせるものすべてを心から遠ざけるならば23、救われない人はいません。イエスは、言葉だけでなく、行いを望んでおられます24。また、大胆な努力を待っておられるのです。戦う者だけが天の国を継ぐに価する25ものとなることができるからです。

 み国の完成、つまり救いか滅びかを決める最終的な裁きはこの世ではなされません。み国は今、種蒔き26の時期であり、成長しつつある一粒の芥子種27であって、その終わりは、地引網で引き上げる漁にたとえることができます。網が砂浜に引き上げられ、正義を行った人々と悪を働いた人々は分けられてそれぞれの運命に従います28。しかし、私たちがこの世に生きている間の天の国とは、女の人がとって三斗の粉の中に入れると膨らんだパン種29であると言えるでしょう。

 キリストがお教えになるみ国の何たるかを理解できる人なら、すべてをかけてもその国を手に入れようとするはずです。天の国は畑に隠されている宝の如きもので、宝を見出した人は全財産を投げ売ってもそれを手に入れようとするのです30。天の国を得るのは困難なことです。確かに手に入れると保証されている人は誰もいないのですから31。しかし、痛悔の心をもつ人の謙遜な叫びなら、天国の扉を広く大きく開くこともできます。キリストと共に十字架に付けられた悪人の一人は、主に願いました。「『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」32。

心の中のみ国

 主なる神、なんと偉大なお方でしょう。あなたこそ私たちの生活に超自然の意味と神的な効果をお与えになる方です。自己の弱さが耳に響くときにも、御子の愛ゆえに全力をあげ、全身全霊を込めて、「かれは栄えなければならない」と叫ぶことができるのはあなたのおかげです。私たちが足ばかりでなく33、心も頭も泥でできている被造物 ― なんという被造物でしょう ― であることをあなたはご存じですから。ただあなたによってのみ、私たちは超自然の生活を続けることができるのです。

 キリストが支配なさるのは、何よりもまず、私たちの心です。しかし、どのようにしてお前を支配させるつもりなのかとお尋ねになるとすればどう答えましょうか。私なら次のように答えるでしょう。キリストの支配を実現させるためには、豊かな恩恵が必要です、と。恩恵の助けがあればこそ、最後の鼓動、臨終のときの一息、ぼんやりとした視線、ありふれた言葉、最も人間的な感情に至るまで、王であるキリストに対するホザンナに変えることができるのです。

 キリストの支配を望むなら、心を主に捧げることから始めて、終始、首尾一貫した態度をとるべきです。もしそうしないなら、キリストのみ国について話しても、キリスト教的な内容の何もないただの叫び、ありもしない上辺だけの信仰、さらには、人間的でいい加減な仕事のために神の名を偽って利用することになりかねません。

 イエスが私の心やあなたの心を支配なさるために、それに相応しい場を整えなければならないというのであれば、諦めてしまって当然でしょう。しかし、「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って」34 。おわかりでしょう。イエスはわずか一匹の動物を玉座とすることで満足しておられます。皆さんはどうお思いでしょうか。主のみ前にあってロバのような者だと知っても、私は別に恥ずかしくありません。「わたしはあなたの前でロバ(獣)のようにふるまった。あなたがわたしの右の手を取ってくださるので、常にわたしはみもとにとどまることができる」35。あなたが手綱を引いてくださるからです。

 最近ロバは次第に減ってきましたが、その特徴を考えてご覧なさい。思いだにしないときに人を蹴とばし、不満の声を上げる年老いた頑固なロバではなくて、アンテナのようにピンと張り切った耳をもち、粗食に耐えてよく働き、しっかりとした軽やかな足並みをみせる若いロバのことです。ロバよりもずっと美しく、器用で野性味に富んだ動物がたくさんいます。しかし、キリストは、ご自分を求める民に王としての姿を見せるために、ロバに目を留められたのです。いうのも、イエスは計算づくめのずるさ、冷酷な心、中身のない上辺だけの美しさなどに対して話す術をお持ちになりません。わが主は、若々しい心の喜び、気どりのない歩み、作り声ではない声、清らかな目、愛情のこもった言葉にすぐ聞き入る耳を尊重されます。これが主の支配の意味です。

仕えつつ支配する

 キリストの支配に心を任せれば、私たちは人々の支配者にではなく、奉仕者となることでしょう。奉仕、これは、私の好きな言葉です。王であるお方に仕え、この王ゆえに、その血によって贖われたすべての人々に仕えること。キリスト信者が奉仕の精神を学ぶことができればと思います。私たちの、この奉仕の精神を学ぶ決心を主に打ち明けて助けをお願いしましょう。奉仕することによってのみ、キリストを知り、愛し、またキリストを人々に知らせ、人々がもっとキリストを愛するようになるからです。

 しかし、人々にキリストを知らせる方法とはどのようなものでしょうか。何をするにも、自ら進んでキリストに隷属することによって、主の証人となる、つまり模範を示すのです。主は、生活のあらゆる面における主であり、人間の存在の唯一究極の理由です。その後、つまり模範をもってキリストの証人となってはじめて、言葉で教えを説くことができるのです。そして、これがキリストのやり方でした。「イエスが行い、また教え始めて(…)」36。キリストはまず行いによって模範を示し、その後で、神の教えを述べたのです。

 キリストゆえに人々に仕えるには徹底的に人間的になる必要があります。万一私たちの生活が非人間的であれば、神は何を建てることもなさらないでしょう。普通は、無秩序や利己主義、権力などの上には何も建設なさらないからです。皆を理解し、誰とも平和に暮らし、誰の過失も追及せず赦さなければなりません。不正なことを正しいとか、神への侮辱を侮辱ではないとか、悪を善であると言うのではありません。しかし、悪に悪を返すのではなく、明確な教えと善い行いを返す、つまり善をもって悪を制する37ことにしたいのです。このようにすれば、私たちの心と周囲の人々の心はキリストの支配を容易にすることでしょう。

 自らの心に神の愛を抱かず、また神の愛ゆえに人に仕えることをせずに、この世に平和を築こうとする人がいます。しかし、このような仕方で平和をもたらす使命を果たすことなどできるでしょうか。キリストの平和とはキリストのみ国の平和のことです。しかも、わが主のみ国の基礎となるのは聖性への望みと、恩恵を受け入れるための謙遜な心構え、正義にかなった行いに努力を傾け、神がなさるように惜しみなく愛を〈振り撒く〉生活なのです。

全活動の頂点にキリストを

 これは夢物語ではなく、実現可能な目標です。ただし、すべての人々が神の愛を心に留める決心をしなければなりません。主キリストは十字架に付けられ、十字架の高みから神と人間との間に平和を確立することによって世を救われました。イエス・キリストはすべての人々に教えておられます。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもと引き寄せよう」38。 もしあなたたちがその時々の義務を果たし、大きなことであれ小さなことであれ、何事においてもわたしの証人になることによって、この世の全活動の頂点に私を据えるならば、「すべての人を自分のもと引き寄せよう」。こうして、わたしの国はあなたたちの間に実現するだろう。

 主キリストは、人間と全被造界、この善き世界を救うために努力を続けておられます。この世界は神の手によって創られた善い世界です。しかし、アダムの罪、人間の高慢の罪によって、神が被造界にお与えになった調和が崩れてしまいました。

 けれども時が満ちたとき、父である神は御独り子を遣わし、御子は聖霊の業によって、終生おとめである聖マリアの胎内で人となられました。そうなさったのは、平和をもたらし、人を罪から救い、それによって私たちを神と親しく交わることのできる「神の(養)子」39にするためでした。こうして、人と神との和解をもたらした40キリストにおいてすべてのものを回復させ、全宇宙を無秩序な状態から解放する仕事を41、新しい人・神の子という新しい枝42、つまり人間にお与えになったのでした。

 私たちキリスト者はそのために召されました。キリストのみ国を実現させて、これ以上憎しみも残酷なこともないように、またこの世に、穏やかだが強烈な愛の香りを浸透させる努力をすること、これこそ使徒職であり、心を〈食い尽くすべき情熱〉です。今、私たちの王にお願いして、破壊したものを修復し、見失われたものを見つけ出して救い、人間が乱した秩序を回復し、迷うものを目的地に導き、全被造物の間に一致を再建するという神の計画に、慎み深く、しかし熱心に、協力させていただきましょう。

 キリスト教の信仰をもつとは、イエスの使命を人々の間で続ける約束をすることにほかなりません。私たち一人ひとりが、もう一人のキリスト・キリスト自身にならなければなりません。そうして初めて、〈救いのパン種〉を社会のあらゆる分野にもたらし、内部から社会を聖化するという果てしなく広大で偉大な事業に着手することができるのです。

 私は政治を論ずることは絶対にしません。たとえ人間の諸活動にキリストの精神を鼓舞するというよい目的のためであっても、キリスト信者のこの世における使命が政治と宗教との結びつきにあるとは思わないからです。そうならば狂気の沙汰と言えるでしょう。すべきことは、相手が誰であっても、一人ひとりの心を神で満たすことなのです。キリスト信者一人ひとりに話しかけて、それぞれが自らの置かれた場、教会や社会での地位だけでなく、歴史的事情によってもいろいろに変わり得る各自の占める場で、模範と言葉を通して信仰を証す人となることができるように努力したいものです。

 キリスト信者は人間としての権利をすべて持って社会に生きています。心にキリストがお住まいになることとキリストの支配を認めれば、毎日の仕事すべてに主の効果的な救い、しかも非常にはっきりした効果を見出すでしょう。世に言うように、仕事が尊いとか卑しいとかは問題ではありません。人間にとって最高と見えることが神の目には最低であることがあり、通常、低いとか、慎ましいと呼ばれるものが、聖性と奉仕というキリスト教的な徳の頂点に位することもあり得るからです。

自由

 キリスト信者は、自らの義務である仕事に従事するとき、人間的なものに固有の義務を避けたり無視したりすべきではありません。人間の諸活動を祝福するという言葉が諸活動に固有な働きを否定したりごまかしたりすることであると解釈されるようなことがあるとすれば、そのような表現を使いたくありません。個人的な考えとしては、付け足しの看板のように、通常の活動に宗教的な形容詞を仰々しく付すことには賛成できません。反対意見は尊重しますが、そうすることによって私たちの信仰をみだりに用いる危険があるからです。さらにもう一つの理由は、カトリックというレッテルを、必ずしも信義にかなうとは言えないような立場や運動を正当化するために使う人々もいたからなのです。

 この世界とその中にある罪以外のすべてのものが善いとすれば、それは私たちの主である神の働きによるものです。キリスト信者は、神を侮辱することのないよう常に戦いつつ、つまり愛から出る積極的な戦いを続けながら、この世のあらゆる分野で人々と肩を組んで活躍し、人格の尊厳に由来するあらゆる善を弁護しなければなりません。

 そのなかでも特に一つ常に探し求めるべきものがあります。それは個人の自由という善のことです。他人の自由とそれに伴う個人的な責任を擁護してこそ、人として、キリスト信者として、恐れることなく自らの自由を弁護することができるでしょう。これからも、絶えず次のことを繰り返し申し上げたいのです。主は無償で超自然の賜物である恩恵をお与えになりましたが、さらにもう一つ、個人の自由という、人間に相応しく素晴らしい贈り物をくださいました。この自由が崩壊して自由放埓にならないようにするため、神法にかなった活動をするとき、実効的な努力と十全な態度が要求されています。主の霊のおられるところに自由がある43からです。

 キリストのみ国は自由の国です。そこには、神の愛ゆえに望んで自己を鎖で縛る召使いしかいません。幸いなるかな、私たちを自由にする愛ゆえの隷属は! 自由がなければ恩恵に応えることはできません。自由がなければ、〈やる気があるからやるのだ〉という最も超自然的な動機によって、何ものにも拘束されずに、すべてを主に捧げることはできないのです。

 今、私の言葉を聞いてくださる方々の中には、もう何年も前から私を知ってくださっている方もいらっしゃいます。そのような方々は、私が生涯をかけて、個人の自由とそれに伴う個人の責任について説き続けてきたことを証明してくださるでしょう。私はこの世に自由はないものかと一所懸命探し求めてきました。今も探し続けているのです。そして日増しに自由を愛する、と申し上げます。この世の何ものにも増して自由を愛しています。自由こそ決して十分に評価し尽くすことのできない宝であるからです。

 個人の自由について話すとき、司祭としての私の職務に関係のない問題には、たとえ問題自体が正当であっても自由を口実に口を挾むつもりはありません。世俗的な、やがて過ぎ去る一時的な話題を扱うのは私の仕事ではないと承知しております。そのような問題は、現世的・社会的分野に属するものであって、主が人々の静かな話し合いにお任せになった事柄であるからです。また、司祭は、いずれの党派にも属することなく、神に、そして神の救いに関係する霊的な教えに人々を導き、イエス・キリストの制定になる秘跡に人々を近づけ、さらに内的生活に進歩するよう指導することによって、神の子である人間が互いに例外なく兄弟であることを自覚できるよう助ける時のみ、口を開くべきであることも知っているつもりです。

 本日は王であるキリストの祝日です。キリストのみ国を政治的な意味に解釈する人々は信仰の超自然の目的を十分深く理解していない、また、そのような人々は、わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い44、と主が仰せになったのに、人の良心にキリストのものではない重荷を負わせようとすると言っても、祭司職に無関係なことを言っていることにはなりません。すべての人々を本当に愛しましょう。そして何にもましてキリストを愛さなければなりません。そうすれば、平穏で理に適った社会生活において、当然、他人の正当な自由を尊重することになると思うのです。

神の子に相応しい落ち着き

「しかしこんなことに耳を貸す人はいない、ましてや実行する人となればなおさらいない」と言う人もいるでしょう。確かにそうだと思います。自由という植物は強くて丈夫なものですが、石地や茨の間、あるいは人々が遠慮会釈なく踏みつけて通る道45ではうまく育たないものだからです。これについてはキリストがこの地上においでになる前から、私たちに告げておられました。

 詩編の第二編を思い起こしてください。「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか」46。今になって始まったことではないことがおわかりになるでしょう。キリストの降誕以前から、すでにキリストに反抗する人々がいました。キリストの平和を告げる足音がパレスチナの道々に響きわたるときにも、彼に反対する人々がいました。そしてその現在まで、キリストの神秘体の成員を攻撃し、迫害し続けているのです。なぜ、こんなに憎むのでしょうか。なぜ、汚れない清純な人々をこれほど苦しめるのでしょうか。なぜ、個々の人の良心の自由を押しつぶそうとする態度がこんなにも広がっているのでしょうか。

 「我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう」47。快い軛を壊し、聖性と正義、恩恵・愛・平和という素晴らしい荷、キリストの荷を捨て去るのです。愛をみて腹を立て、自分を守るために天使の軍勢をお呼びになる48ことも敢えてなさらず、全く逆らおうともされない神の優しさを、人々はあざけるのです。もし、主が仲裁をお認めになるとすれば、あるいは、何人かの無実の罪の人たちを犠牲にして大部分を占める罪人の償いとするというのであれば、主と話し合いを試みることもできるでしょう。しかし、このようなやり方は神のお考えではありません。私たちの父は本当の父であって、たとえ正しい人が十人しかいなくても49、悪の働き手が何千人いようとも彼らを赦そうと心を決めておられます。憎悪に狂う人たちは、このような慈しみの心を理解できず、この世で罰を受けないように見えるのをよいことに元気づいて、ますます悪を働くのです。

「天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲り、憤って、恐怖に落とし、怒って、彼らに宣言される」50。神の怒りは当然のこと、その憤りも道理に適ったことでしょう。しかし、神の慈悲はなんと深いことでしょう。

 「『聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた』。主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ』」51。父である神は、慈しみ深い心から、御子を私たちの王としてお与えになりました。人間を脅かすことはあっても、すぐにその心を和らげ、怒りを示すと同時にご自分の愛をお恵みになります。お前は私の子だ、御父は御子に向かって言われます。私たちがもう一人のキリスト・同じキリストになる決心をすれば、あなたにも私にもそのように言ってくださるのです。

 神の優しさを知って感動する心を言葉で表すことはできません。お前は私の子だ、おっしゃっています。見知らぬ人でも、よい待遇をうける召使いでもない、ただの友人でもありません。友だと言ってくださるだけでもありがたいことですが、それだけではなく、「子よ!」と言ってくださいます。神に対して望むままに子としての情愛を表すことができるのです。さらに、決して願いを拒むことをなさらない神は、その神の子の厚かましい態度さえ認めてくださるとまで言いたいと思います。

不正を働く人たちが大勢いると言うのですか。その通りだと思います。けれども、主は繰り返して仰せになります。「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く」52。厳しい約束です。しかし、これは神の約束ですから、知らない顔をすることなどできません。キリストは無為に世の救い主となり、御父の右に座し、支配しておられるのではありません。これは、いずれ一生を過ごし終えたとき、私たちを待っている運命についての恐ろしい知らせです。心が悪と絶望に凝り固まっているすべての人々に、歴史が終わりを告げる知らせなのです。

 神はいつでも勝利を収めることができるのですが、説得の道を選ばれます。「すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。畏れ敬って、主に仕え、おののきつつ、喜び躍れ。子に口づけせよ、主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる」53。キリストは主であり、王であります。「わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』と書いてあるとおりです。

 だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、お前たちにはとうてい信じられない事を』」54。

 これこそ、救いの業、心の中におけるキリストの支配、神の憐れみの顕れです。「いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて」55。私たちキリスト信者は、キリストの王権を称揚する権利を持っています。いうのは、悪の舞台である人間の歴史において、たとえ不正義が栄え、愛による支配を望まない人が多数いても、永遠の救いの業は織り上げられていくからです

神の天使

「それは平和の計画であって、災いの計画ではない」56と主が言っておられます。平和の人、正義の人、善の働き手になろうではありませんか。そうすれば、主は私たちの裁判官ではなく、友・兄弟・愛なる方となってくださるでしょう。

 この楽しい人生の旅路をいつも神の天使たちが付き添ってくれますように。大聖グレゴリオは次のように述べています。「救い主がお生まれになる前に、人間は天使たちとの友情を失っていた。原罪および日々の自罪のおかげで、天使たちの輝くばかりの清純さから遠ざけられたのである。(…)しかし、私たちの王を認めて以来、天使たちも人間を同市民として受け入れてくれた。

 天の王が人間の体をおとりになったので、天使たちも、もは惨めな私たちから離れようとはしない。天の王のペルソナにおいて自分たち以上に高められた人性をみて、天使たちは崇拝し、もは自分たちよりも劣ったものとは考えない。彼らは何の不都合もなく、人間を仲間とみなしている」57。

 私たちの王の聖なる母、私たちの心の元后であるマリアは、自分にしかできないかのように、私たちの世話をしてくださいます。恩恵の玉座である慈しみ深い母、あなたにお願いします。どうか、私たちと周囲にいる人たちが一生を通して、素朴な詩を平和の大河のように58一行一行詠んでいくことができますように。あなたこそ尽きることのない憐れみの海ですから。「川はみな海に注ぐが海は満ちることがな」59い。

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