聖霊、知られざる偉大な御方

1969年5月25日 聖霊降臨の祝日


聖霊が火のような舌となって現れ、使徒たちの上に留まったあの五旬節の出来事を使徒言行録に読むとき、いろいろな民族に教会を発展させはじめられた神の偉大な力を感じます。従順と十字架上でのご死去とそのご復活によってキリストが死と罪に対して得られた勝利を、神ははっきりとお示しになったのです。

 復活の光栄の証人となった使徒たちは、聖霊の力を自らのうちに感じました。新たな光が彼らの知性と心を開いたのです。すでに、彼らはキリストに従い、その教えを信仰をもって受け入れてはいましたが、その意味を完全に理解できたわけではありませんでした。真理の霊が来てすべてを悟らせることが必要だったのです1。イエスだけが永遠の生命のみ言葉を有しておられることは知っており、キリストの跡に従い、生命を捧げる覚悟はありましたが、まだ弱く、試練のときが来るとキリストを見捨てたこともありました。しかし、聖霊降臨の日にすべては過去の出来事となったのです。剛毅の霊である聖霊は、彼らを確固たる自信に満ちた大胆な人間に変えました。使徒たちの言葉はエルサレムの街々や広場に強く生き生きと響き渡り始めたのです。

 あの時、いろいろな地方からやって来た人々は街に集まり、驚いて聴きいっていました。「パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」2。人々は、目の前で行われた不思議のおかげで使徒の説教に耳を傾けることになりました。使徒たちに働きかけた聖霊は、同じく人々の心を動かし、信仰に導かれたのです。

 聖ルカによれば、聖ペトロがキリストの復活を宣言すると、取り囲んでいた多くの人々が近づいて質問しました。「兄弟たちよ、わたしたちはどうしたらよいのですか」。ペトロは答えて言いました。「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。その日に三千人ほどが仲間に加わった、と聖書は結んでいます3。

 聖霊降臨の日の聖霊の訪れは一つの孤立した出来事ではありません。使徒言行録の中で、キリスト教徒の最初の集団を、生命とみ業で導き励ます聖霊とその行いについて触れない頁はほとんどありません。聖ペトロを宣教に奮い立たせたのも4、使徒たちの信仰を強めたのも5、呼びかけた異邦人に聖霊の賜物を注がれたのも6、パウロとバルナバを遠隔の地に遣わしてイエスの教えのために新しい道を開いたのも7、すべて聖霊であります。一言でいえば、聖霊はその存在と働きかけによってすべてを支配されるのです。

聖霊降臨は過去の思い出ではない

 聖書が示すこの重大な事実、聖霊降臨は、過去の思い出でもなく、歴史のかなたに残された教会の黄金時代でもありません。聖霊降臨は私たち一人ひとりの持つ惨めさや罪を超えた、今日の、そしてあらゆる時代の教会の現実の姿なのです。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」8と、主は弟子たちに仰せになり、そして、その約束を守られました。つまり、ご復活とご昇天の後、私たちを聖化するために、永遠の御父と一緒に、聖霊をお遣わしになったのです。

 神の力は地の面を照らし出します。キリストの教会は、聖霊の力を得て、常に、すべてにおいて、諸国に対して掲げられたしるしとなり、神の愛と恩恵を人類に伝えるのです9。私たちがどんなに限界だらけの存在であっても、信頼をもって天を眺めれば、喜びに満たされます。神は私たちを愛し、罪から解放してくださるからです。教会における聖霊の存在と働きかけによって神のお与えになる平和と喜び、そして、永遠の至福を垣間見ることができるのです。

 聖霊降臨の日、聖ペトロに近づいた最初の人々のように、私たちも洗礼を受けました。洗礼において父である神は私たちの生命を占有され、キリストの生命に一致させ、聖霊を送ってくださいました。聖書には次のように書いてあります。「救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです」10。

 自分の弱さや失敗の経験、キリスト信者と自称している人々の卑少でこせこせした言動のもたらす、嘆かわしくも悪い手本、一部の使徒的事業の外見上の失敗や混乱、これらすべては人間の限界と罪とを明らかにする現実ではありますが、私たちの信仰の試金石ともなり、神の力はどこにあるのかという疑問や誘惑を誘いだすもとにもなるのです。このような誘惑には断固として抵抗し、もっと純粋に、もっと希望を強めなければなりません。つまり、そのような時こそ、忠誠を固めるべく努力を傾けるときなのです。

もう何年も前のことですが、私の体験を述べさせてください。信仰はないが善良な心を持った友人が、ある日、世界地図を指して言いました。「ご覧なさい。東西南北を」。「何を見ればよいのですか」と問うと、次のように答えました。「キリストの失敗を。何世紀にもわたって人々の心にその教えを吹き込もうと努めてきましたが結果はどうでしょう」。一瞬、私は非常に悲しくなりました。確かにまだ、主キリストを知らない人がたくさんおり、キリストを知っている人々の中にも、知らないかのような生き方をしている人が多くいることに大きな苦痛を感じていたからです。

 しかしこの思いはほんの一瞬で消え去り、直ちに愛と感謝の思いに変わりました。イエスは、各人が自由に主の救霊のみ業に協力するようにとお望みになったのです。失敗されたのではありません。み教えとご生活は世界を絶えず豊かにしています。キリストの救霊のみ業はそれ自体十分で、溢れるばかりに豊かな実りをもたらしたのです。

 神は奴隷ではなく子どもとしての私たちをお望みで、私たちの自由を尊重されます。救霊は続けられ、私たちはそれに参与します。聖パウロの強い言葉のように、キリストのみ旨によると、キリストの体である教会のために、私たちは自らの体と自らの生命で、キリストの苦しみの欠けるところを満たさなければならないのです11。

 神の信頼と愛に応えるために生命をかけて自己を捧げ尽くすこと、特に、キリスト教の信仰を真剣に受けとめる決意は、誠に、努力を傾ける値打ちのある仕事です。使徒信条を唱えるとき、全能の神と、ご死去の後、復活された御子イエス・キリスト、生命の主であり与え主である聖霊への信仰を宣言します。そして「一、聖、公、使徒継承」の教会は、聖霊によって生命を与えられたキリストの神秘体であると、信仰告白します。さらに罪の赦しと未来の復活への希望に喜ぶのです。しかし、このような真理は心の底まで浸透しているのでしょうか。それともただ口先だけに留まっているのでしょうか。聖霊降臨のもたらす神からの勝利と喜びと平和の使信は、全キリスト信者の考え方、受けとめ方、そして生き方の確固とした基礎であるべきなのです。

神の力と人間の弱さ

「主の手が短くて救えないのではない」12。昔とくらべ、神の力が弱まったのでも、人類に対する神の愛が真実を失くしたのでもありません。天地万物と地球や天体の運行、被造物の正しい行い、歴史上の出来事にみられる肯定的なもの、一言でいうなら、すべては神に由来し、すべては神に向かう、と信仰は教えています。

 聖霊の働きかけに人は気づかないでいることもあります。神はご計画を人にお教えにならず、また罪が目を曇らせ、濁らせて、人間は神の賜物に気づかなくなったのです。しかし、主の絶えざる働きかけを、私たちは信仰によって知っています。私たちを創造し、維持されるのは神ご自身であり、神の子らの栄光に輝く自由13を与えるため、全被造界を恩恵によって導いておられるのも神ご自身なのです。

 それゆえキリスト教の聖伝は、聖霊に対してとるべき私たちの態度を〈素直〉という一語に要約しました。素直であるとは、私たちの周囲や私たちの心の中で、聖霊がお勧めになる事柄と分配される賜物に対して、また聖霊の興される運動や団体に対して、さらに心の中に興してくださるよい感情や決心に対して、敏感になることにほかなりません。典礼聖歌で歌われるように、聖霊は、天の賜物の分配者・心の光・霊魂への客人であり、労苦する者の憩い・悲しいときの慰め主であります。聖霊の助けがなければ、人間には純真無垢で高潔なところなどないことでしょう。聖霊こそ汚れたものを清め、病人を回復させ、冷えたものを温め、曲がったものを直し、人を救霊と永遠の喜びの門に導く御方であるからです14。

 聖霊に対して、私たちは完全で篤い信仰を持たなければなりません。世界における聖霊の臨在を漠然と信じるだけではなく、特にその力の顕れやしるしを感謝の心で受け入れなければならないのです。真理の霊が来るとき、「その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」15と、イエスはお告げになりました。聖霊とは、キリストがこの世で獲得された聖化の業を行うために、キリストから遣わされた霊なのです。

 キリスト自身とキリストの教え、キリストの秘跡、キリストの教会を信じなければ、聖霊を信じているとは言えないでしょう。教会を愛さず信頼もしない人々や、教会を代表する人の落度や欠点を指摘するだけで満足している人々、外部から教会を批判して教会の子どもになりきれない人々などはキリスト教の信仰を持っていませんし、本当に聖霊を信じているとは言えないのです。司祭がミサをたて、カルワリオの犠牲を新たにするとき、聖なる慰め主の働きかけはいかに豊かで、いかに重要であるかを考えずにはいられません。

キリスト信者は恩恵という素晴らしい宝を土の器16に入れて持っていると言えるでしょう。神はその賜物をもろく壊れやすい人間の自由に任されました。神の力に助けられているとは言え、私たちは、情欲や安楽や高慢に負けて、しばしばその助けを退け、罪を犯してしまうのです。二十五年以上も前から、信仰宣言を唱え、一・聖・公・使徒継承の神の教会に対する私の信仰を宣言するとき、幾度となく「たとえ何があろうとも」と付け加えてきました。この習慣を人に話したところ、そうするわけを尋ねられました。「あなたの罪や私の罪にもかかわらず」信じる、― これが私の返事だったのです。

 確かに今申し上げた通りだと思っています。しかし、対神徳である信仰を持たず、一部の信者や聖職者の素質のみに注目して、教会を人間的に判断することは許されません。これでは外面しか見ることができないからです。教会において最も大切なことは、人間がいかに神に応えているかではなく、神のみ業を知ることなのです。教会とは、私たちの間におられるキリスト、救霊のために人々の間に来られた神、啓示をもって人々を呼び、恩恵で聖化し、絶え間ない助けによって日常の大小の戦いを支えてくださる神のみ業の顕れなのです。

 人間に対して不信を抱くことはできます。また、自分を信じないで〈わが過ち〉と深く誠実な痛悔の祈りをもって毎日を終わらなければならないことも確かです。けれども神を疑うことだけは絶対に許されません。教会とその神的起源、宣教や秘跡の救済的効果を疑うことは、神ご自身を疑うことであり、聖霊降臨に対しては徹底的な不信を示すことになるからです。

 聖ヨハネ・クリゾストモは次のように記しています。「キリストが十字架に付けられる前に神と人との間に和解はなかった。そして和解のない間は聖霊も送られなかった。聖霊がおいでにならないということは、神の怒りのしるしであった。今や聖霊が十分に送られるのを見たからには、和解を疑ってはならない。しかし、誰かが『今、聖霊はどこにおられるのか』と尋ねるかもしれない。奇跡が行われ、死者が蘇り、重い皮膚病の人が癒されるとき聖霊について話すことができよう。今確かに聖霊がおられるということはいかにしてわかるのか。心配しないでよい。今も我々の間に聖霊がおられることを示そう。

 もし聖霊がおいでにならないなら、主イエスよ、呼びかけることはできない。『聖霊によらなければ、だれも“イエスは主である”とは言えないのです』(1コリント12・3)。もしも聖霊がおいでにならないとすれば、信頼を持って祈ることはできないだろう。事実、祈るときには、『天におられるわたしたちの父よ』(マタイ6・9)と呼びかける。聖霊がおいでにならなければ神を、父よ、呼ぶことはできないだろう。どうしてそれがわかるのだろうか。使徒が次のように教えるからである。『あなたがたが子であることは、神が、“アッバ、父よ”と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります』(ガラテヤ4・6)。

 父である神よ、呼びかけるときには、あなたの心を動かしてその祈りを与えたのは聖霊であることを忘れてはならない。もし聖霊がおいでにならなかったとすれば、教会には、英知の言葉も知識の言葉も何もないだろう。『ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ』(1コリント12・9)と書かれてあるからである。もし聖霊がおいでにならなければ、教会は存在していないだろう。しかし教会が存在しているからには、聖霊がおいでになることも確かである」17。

 人間の限界や、至らなさを超えて、教会とは、世界における神の遍在のしるしであり、ある意味では、普遍的な秘跡であると言えます。ただし、新約の七秘跡とその本質は教義として定められてありますから、厳密な意味で秘跡であるというのではありません。キリスト信者とは神から再生の恵みを受け、救いを告げるために遣わされた者のことです。確固たる信仰、生き生きした信仰を持ち、勇敢にキリストを告げ知らせるならば、使徒の時代のような奇跡が私たちの目の前で行われるに違いありません。

 天を見上げて神のみ業を見ることのできなかった盲人が視力を回復し、激情にしばられ、愛することのできなかった精神障害者や、足の不自由な人が解放されることでしょう。神について聞きたくなかった耳の不自由な人が聞こえるように、また自己の失敗を告白したくないがために舌を縛られていた口の利けない人が話せるようになり、罪によって生命を失った死人がよみがえることでしょう。こうして、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭」18いことを、私たちは納得するのです。そして初代教会の信者のように、聖霊の力強さや人間の知性や意志への働きかけを眺めて、喜びに満たされるのです。

キリストを告げ知らせる

 個人的なものから何らかの意味において歴史的大事件と称される事件に至るまで、人生のあらゆる出来事は、真実を直視させるために神が人々を招く呼びかけであると共に、私たちの従う聖霊19を、恩恵の助けを受けて言葉と行いによって人々に告げ知らせるために、キリスト信者に与えられた機会であります。

 各世代のキリスト信者は、自己の属する時代を贖い、聖化しなければなりません。そのためには、聖霊の働きかけと神のみ心から常に溢れでる豊かな宝に対して、どう応えるべきかを、〈言葉の賜物〉をもって知らせることができるように、隣人や同僚を理解し、その抱負を分かち合わなければなりません。福音の、古くかつ新しい知らせを、私たちの生きる世代や社会に告げ知らせることは、キリスト信者に課せられた義務なのです。

 人間の存在や運命についての信仰の教えに対して、現代人がすべて閉鎖的で無関心であるとは思えません。現代の人々が地上のことのみに関心を持ち、天を見上げようとしないというのも当たっていないと思います。閉鎖的なイデオロギーに事欠かず、またそれを支持する人々もあることはありますが、今日でも、大きな志とさもしい態度、英雄的な行為と卑怯な行為、夢と偽りが存在します。今以上に人間を尊重する正しい世界を夢みる人々もおり、最初に抱いた理想が挫折し、幻滅を感じて自己の安寧のみを求め、いつまでも過ちの中に低迷している人々もいるのです。

 男女を問わずこのような人々すべてに、どこにいても、有頂天になっているときも、危機感や挫折感に襲われているときも、聖霊降臨後、聖ペトロが厳かに告げた、次の知らせを私たちは伝えなければならないのです。「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」20。

聖霊の賜物の中でも、すべてのキリスト信者にとって特に必要なものが一つあると言えるでしょう。それは上智の賜物です。上智の賜物によって、神を知り味わうにつれ、この世の事柄を正しく判断できるからです。信仰に一致した生活をしているなら、周囲を眺め、世界的・歴史的事件に思いを巡らせるとき、イエス・キリストのあの憐れみの心が私たちにも伝わってくることでしょう。「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」21。

 キリスト信者は人類の持っているすべてのよいものに気づき、清らかな喜びを評価し、現世の理想や望みに参与するのです。これらすべてを心の奥底に感じ、深く共鳴し、共に生きようとするはずです。信者なら、誰よりも人の心の深遠さをよく知っているからです。

 キリスト教の信仰は、心を小さくするものでも、気高い衝動をそぐものでもありません。気高い衝動や心の有する真実で正確な意義を明らかにすることによって、それらをさらに大きく育てるのが信仰であります。私たちはありきたりの幸福に運命づけられているのではありません。神の深奥の生命にあずかり、父である神・子である神・聖霊なる神を、三位におけるご一体の神として知り愛すると同時に、すべての天使とすべての人々を知り、愛するよう召されているからです。

 キリスト教の信仰は非常に大胆であります。人間の本性の価値と尊厳を称揚し、人間を超自然的な次元まで高める恩恵によって神の子の尊厳に達することができるように創造されたと宣言するのです。これは父である神の救世の約束に基づき、キリストの御血によって実証され、聖霊の絶えざる働きかけによって再確認されて可能となったのでなければ、到底信じえないほど大胆な宣言であると言えます。

 私たちは信仰によって生き、信仰によって成長しなければなりません。そして遂には、東方教会の偉大な博士の一人が何世紀も前に言った言葉が、信者一人ひとりの言葉とならなければなりません。「清らかで透明な物体が光線を受けると燦然と輝き光を放つように、聖霊によって導かれ照らされた霊魂もまた自ら聖となり、人々を恩恵の光で照らさなければならない。未来についての知識と秘義を知ること、隠された真理を理解すること、賜物の分配、天国での市民権、天使たちとの語り合い、これらはすべて聖霊から出るものである。終わることのない喜び、神における堅忍、神と似たものになること、考えられるものの中で最も崇高なことすなわち神になること、これらも聖霊に由来するものである」22。

 人間の尊厳、特に恩恵により神の子となった人間の偉大な尊厳を自覚すると、その自覚は信者の心の中で謙遜と一体となります。救いと生命を得るのは人間の力によるのではなく、神のご厚意によるものだからです。これは決して忘れてはならない真実です。もしこの事実を忘れ去ると、〈神化〉の意味が誤解され、神化は傲慢や僣越に変わってしまい、遅かれ早かれ自己の弱さや惨めさを経験して霊的に倒れてしまうことでしょう。

 聖アウグスチヌスは次のように自問自答しています。「自分は聖人であると敢えて言えるだろうか。聖化するものを聖人と考えて、誰も私を聖化する必要がないと言えば、私は傲慢で偽り者である。しかし、『神であるわたしが聖であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい』とレビ記に書かれている意味において、聖化される人を聖人と解釈するならば、地の果てに住む人間であってもキリストの御体の一部であるから、その頭と共に頭の下で大胆に、私は聖人であると言える」23。

 三位一体の神の第三のペルソナを愛し、心の底で励まし叱責する神の霊感に耳を傾けましょう。心を照らす光をたよりにして、地上の道を歩みましょう。希望の神が私たちを平和で満たし、聖霊の力によって希望をますます豊かにしてくださることでしょう24。

聖霊と交わる

 聖霊に従って生きるとは、信仰・希望・愛をもって生きることにほかなりません。言い換えれば、神が私たちをご自分の所有物とされ、私たちの心を根本的に変えて神に相応しくされるにお任せすることなのです。堅固で円熟したキリスト信者の生活とは、神の恩恵が成長するおかげであって、一朝一夕にして成就できるものではありません。使徒言行録には、初代のキリスト信者について、次のように簡潔ですが、意味の深い言葉が記してあります。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」25。

 これこそ、初代教会の人々の生活であり、私たちの生活でなければならないのです。信仰の教えに精通するまで黙想すること、ご聖体においてキリストと出会うこと、匿名の祈りではなく、神と、顔と顔を合わせた個人的な対話をすること、私たちの生活は根本的にこのような内容を持たなければなりません。仮にそれらが欠けていたとしても、博学な考察や、多かれ少なかれ充実した活動や信心の業や習慣はあることでしょう。しかし真のキリスト教的な生活はあり得ません。キリストヘの同化はなく、救いのみ業にも効果的にあずかっていないからなのです。

 すべての人は等しく聖化に召されているので、この教えはすべてのキリスト信者のための教えであります。福音の教えを少しだけ実行すればよいというような、二流のキリスト信者など存在しないからです。皆、同じ洗礼を受けました。神の賜物や各々の状況が、文字通り種々様々であったとしても、神の賜物を分配する聖霊は一つであり、信仰もひとつ、希望もひとつ、愛もひとつなのです。

 従って、使徒の次の言葉は私たちに向けられたものと考えることができます。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」26。この言葉を神との今以上に個人的で直接的な交わりへの招きと考えることができます。残念なことに、一部のキリスト信者にとって慰め主は〈知られざる御者〉です。その名を口にしても唯一の神の三つのペルソナの一つであるお方であると理解していません。聖霊なる神と話し、その方によって生きているとは言えないのです。

 典礼を通して教会が教えているように、たゆみなく、信頼をもって素直に聖霊と交わらなければなりません。そうすれば私たちの主をより深く知り、同時にキリスト信者に与えられた計り知れない賜物についても、もっと完全に理解できることでしょう。前に述べた神の生命への参与や、神化の意味がいかに偉大で、いかに真実であるかも深く理解できることでしょう。

 なぜなら、「聖霊とは、ご自分が神に無縁な存在であるかのように、私たちの中に神の本質を描きだす画家ではない。神の似姿を私たちに与えるのはこのような方法によるのではなく、神であり神から発出される聖霊ご自身が、それを受ける心に、ろうに印が押されるように、ご自分を刻みつけられるのである。このように、聖霊がご自分を伝え、ご自分の似姿を与えることによって、神の美しさに相応しい本性を人間に回復させ、再び神の似姿にするのである」27。

聖霊との交わり ― そして聖霊を通して御父と御子との交わり ― を深めて、慰め主なる御方と親しくなる生活様式を定めるには、一般的にではありますが、次の三つの基本的な事項に留意しなければなりません。すなわち、素直、祈りの生活、および十字架との一致であります。

 素直であることが第一です。聖霊はその勧めによって、私たちの思い・望み・働きに超自然的な色合いを添えてくださる御方であるからです。人々にキリストの教えを深く吸収させ、従わせるように導く御方、各個人の使命を自覚させ、神のお望みをすべて果たすための光をお与えになる御方は聖霊です。聖霊に素直に従うなら、キリストの似姿が私たちの中で次第に形づくられ、日毎に父である神に近づいて行くことでしょう。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」28。

 この世での生活原理である聖霊の導きに任せるなら、霊的な生命力は増し、子どもが父親に頼るのと同じように、自然に信頼しながら、父である神の腕に自己を依託できることでしょう。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」29と主は言われました。霊的幼子の道とは、別に新しい道ではありませんが、いつも効果的な道です。弱々しい人々の道でも、成熟に欠ける人々の道でもありません。それは、神の愛の素晴らしさを深く考えさせ、自分の惨めさを認識させ、自己の意志を全く神のみ旨に一致させる超自然的な円熟への道なのです。

第二は祈りの生活です。キリスト信者の温和・従順・奉献などは愛から出て愛に向かって進むべきものです。そしてその愛によって、交わり・語り合い・友情が生まれます。キリスト信者の生活は、唯一にして三位なる神との絶え間ない対話を必要とします。聖霊のお招きになる親しい交わりとはその対話のことであります。「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません」30。聖霊と絶えず交われば、霊的に成長し、キリストとの兄弟意識を抱き、父として呼びかけることをためらうことのない神の子であると感じることでしょう31。

 私たちを聖化してくださる聖霊としばしば交わる習慣を持つようにしましょう。この習慣によって、近くにおいでになる聖霊に信頼し、助けを求めることが容易になるのです。こうして、狭い心も広くなり、神を愛し、神においてすべての人々を愛する希望も燃え上がってくることでしょう。そして、霊と花嫁、聖霊と教会、さらに一人ひとりのキリスト信者も、イエス・キリストに近づき、来てください、いつまでも私たちと共にいてくださいと願う32黙示録の終末の光景が私たちの生活に再現されるのです。

最後に十字架との一致を挙げることができます。キリストのご生涯においてカルワリオがご復活や聖霊降臨に先行したように、同様の過程がキリスト信者の各々の生活の中にも再現されるべきなのです。聖パウロの言葉によれば、神の「子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」33。聖霊は、ただ神の光栄のみを求める自己放棄という十字架の結果、神への完全な奉献の結果、与えられるのです。

 恩恵には忠実に応え、自分の心に十字架を立てて神の愛ゆえに自己を否定し、我儘と人間の誤った確信から本当に離脱しているとき、すなわち真実に信仰を実行するとき、そのときこそ人は、聖霊の偉大な焔や偉大な光、偉大な慰めを全面的に受けることができるのです。

 キリストが勝ちとられ、聖霊の恩恵によって与えられる光と平安34が私たちの心にみなぎるのもその時です。霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制35であり、主の霊のおられるところに自由36があるのです。

私たちの中にはまだまだ何らかの形で罪が宿っているので、限界だらけの存在ではありますが、それにも拘わらずキリスト信者は、新たな光を受けて神の子となる富を有することを知っています。御父のために働くゆえに全く自由であると自覚し、何ものも自己の希望を破壊できないゆえ、喜びは永続的であることを知っているのです。

 それと同時に、地上のすべての美と素晴らしさに感嘆し、すべての富とすべての善を大切にし、愛するために創られた対象を純枠・完全に愛することができるはずです。人間の弱さを知り、罪を痛悔することによって、キリストの救霊への望みに再び一致し、すべての人間との結束を強く感じることができますから、罪を悲しむ心が私たちを苦々しい態度や絶望的あるいは高慢な態度に向かわせることもないはずです。結局、キリスト信者が聖霊の力を強く自分の中に経験するとき、自己の失敗によって挫折することはなくなるはずです。その挫折とは、実は個人的惨めさにも拘わらず、あらゆる場所でキリストの忠実な証人として、再び立ち直るようにという招きにほかならないからです。そのような場合、個人的な惨めさと言っても、大きな過失でも、心を取り乱させるほどの失敗でもないでしょう。仮に重大な過失であったとしても、痛悔の心をもち、ゆるしの秘跡にあずかれば、神の平和は蘇り、再び神の御憐れみを証す善良な証人になることができるのです。

 人が自己を聖霊の導きに委ねたときの、信仰の豊かさとキリスト信者の生活を、人間の貧弱な言葉で十分に言い尽くすことはできませんでしたが、簡単にまとめてみたつもりです。結びとして、教会全体の絶えざる祈りをこだまする聖霊降臨の祝日の典礼聖歌にある祈願を私の最後の祈りにしたいと思います。「創り主の聖霊、来てください。わたしたちの心を訪れ、あなたに創られたこの心を、天の恵みで満たしてください。(…)わたしたちがあなたによって、御父と御子を知り、父と子から発せられる愛の息吹を信じる恵みを与えてください」37。

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