聖体、信仰と愛の神秘

1960年4月14日 聖木曜日


「過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」1 。このような言葉で聖ヨハネは、福音書を読む人々に、その日には何か偉大なことが起こるであろうことを告げています。優しい愛情に満ちた前置きとしてのこの言葉は、聖ルカが書き記す次の言葉と並行関係にあります。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」2と主は仰せになったのです。イエスの一言ひとこと、一つひとつの仕草を理解することができるように、今から聖霊の助けをお願いすることにしましょう。私たちは超自然的生命を営みたいと望み、主はご自身を私たちの霊魂の糧として与える旨を明かしてくださり、さらにキリストのみが「永遠の生命の言葉」3を有しておられることを、私たちは知っているからです。

「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」4と、シモン・ペトロと共に信仰告白ができるのは、私たちの信仰のなせる業です。このような信仰は私たちの信心と一体となり、私たちはヨハネの大胆さを真似て、イエスのみ許に近寄り、その胸に寄りかかることもできるようになります5。今読んだように、師であるイエスはご自分の弟子たちを切に、最後まで愛そうとしておられるのです。

 聖木曜日の秘義についてほんの少しでも説明することができればと、ありとあらゆる工夫を凝らしてみても、結局、言葉に表し尽くすことなどできないことがわかります。しかしながら、カルワリオにおける犠牲の前、ご自分の弟子たちと共にお過ごしになったあの最後の夜に、イエスの聖心がどれほどの憂いに包まれていたかを、少しぐらいは想像することができるのではないでしょうか。

 人の一生によくあるように、愛し合う二人が別離を余儀なくされる場合を考えてみましょう。いつも一緒にいたいと望んでいるのに別れなければならない、別れずに一緒にいたいのにその望みはかなえられない。いくら強いと言っても人間の愛の力には限りがあり、仕方なくなんらかの印を使って別離の悲しみを軽くしようとするのです。別れゆく人々は互いに、思い出になるもの、例えば愛のこもった言葉を記した写真などを交換します。愛強し、言っても、人間にはそれ以上のことはできないのです。

 私たちにできないことも、主はおできになります。完全な神・完全な人であるイエス・キリストは、印ではなく〈現実〉を残してくださいました。キリストご自身がお残りになったのです。御父の許においでになると同時に、人々の間にも残ってくださったのです。それも、キリストを思い出すだけの贈り物ではありません。当事者以外の人々にとっては無意味としか言えない写真のように、時の経過につれて色褪せていくものでもありません。パンとぶどう酒との外観のもとに、御体・御血・ご霊魂・神性を伴ったキリストが現存してくださったのです。

聖木曜日の喜び

「口よ、歌え、光栄ある聖体を。尊き母の御子・万民の主が、世の贖いのために流されたこの聖い御血の秘義を」6と、聖なるホスチアの前で、信者が昔から絶えず唱い続けてきた訳がよくわかります。隠れておいでになる神を恭々しく礼拝しなければなりません7。ご聖体は童貞マリアからお生まれになったイエス・キリストご自身、苦しみを受け、十字架につけられた御方、御脇腹を刺し貫かれ、血と水8とを流したイエス・キリストご自身であるからです。

 これこそ、聖なる宴、キリストご自身を糧として受ける宴ですが、そこでは、主のご苦難が記念されるだけでなく、人が主と共に親しく神と交わり、来世の栄光の保証9を受けます。教会典礼のこの短い賛歌の中に、主の熱烈な愛の歴史のクライマックスが要約されているのです。

 私たちの信じる神は、人間の運命、つまり努力や戦いや苦しみなどに関心を持たない遠く離れた御者ではありません。神は御父であって、ご自分の子どもたちに深い愛を示し、その愛ゆえに聖三位一体の第二のペルソナであるみ言葉さえ遣わされました。人となられたみ言葉は、私たちを救うために死去されたのです。そして今、慈悲深い御父ご自身が、私たちの心の中にお住まいになる聖霊の働きを通して、私たちをご自分の方へ優しく引き寄せてくださいます。

 聖木曜日の喜びは、創造主が被造物に溢れんばかりの愛情を注いでくださることを理解するところから生まれます。主イエス・キリストは、これまでのたくさんの慈愛に満ちた行いもまだ不十分であるかのように、ご聖体を制定され、私たちが主のお傍にいることができるようにしてくださったのです。なぜそれほどの愛をお示しになるのか、その理由を知るのは難しいことですが、何も必要となさらない御方が愛に動かされ、私たちを放置したくないとお考えになっていることだけはわかります。三位一体の神は人間を愛し、恩恵の状態に高め、ご自分の「かたどり・似姿」10としてくださったのです。アダムが犯しすべての子孫に継がれた罪と、自罪を赦し、私たちの霊魂内に住まおうと強くお望みになったのです。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」11。

聖体と聖三位一体の秘義

 三位一体の神はご聖体という得も言われぬ方法を通して、人間にその愛を注ぎ続けられます。ご聖体は犠牲であると共に秘跡であると、昔カトリック要理で習ったものです。秘跡としては、聖体拝領と祭壇上の宝物、つまり聖櫃の宝物として示されます。世界中の聖櫃に現存するキリストの御体のために、教会は特に聖体の大祝日を定めました。聖木曜日である今日は、犠牲であり霊魂の糧であるご聖体、ごミサ、聖体拝領について考えてみたいと思います。

 聖三位一体の人間に対する愛について前に話していましたが、ごミサこそ三位一体の神の愛を知る最良の場と言えます。祭壇の聖なる犠牲においては、聖三位一体が活動なさるからです。それゆえ、集会祈願や密誦(†)、聖体拝領前の祈りの最後に、御父に向かって、「聖霊の交わりの中で、あなたと共に世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって」と繰り返すのは、私にとって大きな魅力となっています。(†)この説教が準備された時代のミサの祈りの一つ。

 ごミサの中で絶え間なく御父に懇願します。司祭は、永遠の司祭であると同時にいけにえであるイエス・キリストの代理者です。ごミサにおける聖霊もまた同じように素晴らしく確かな働きをされるのです。「聖霊のおかげで、パンがキリストの御体に聖変化される」12とダマスコの聖ヨハネが書いているように。

 この聖霊の働きは、司祭が供え物を祝福する時に、はっきりと現れます。「聖としてくださる全能の神、おいでください。聖なるみ名のために供えられたこのいけにえを祝福してください」13。私たちが願う内的聖化は、御父と御子がお遣わしになる聖霊の働きに帰せられています。また、聖体拝領の少し前に、「神の子、主イエス・キリスト、あなたは父のみ心に従い、聖霊に支えられ、死を通して世にいのちをお与えになりました(…)」14と祈るとき、犠牲の中にこの聖霊の生き生きとした働きを認めることができるのです。

聖三位一体全体が祭壇の犠牲において現存されますが、御父のみ旨に従って、聖霊と共に、御子が救いの供え物として捧げられます。至聖なる三位一体、唯一にして三位なる神、唯一の本性と愛を有し、聖化の働きにおいても一致を保つ神の三つのペルソナ(位格)親しく交わることができるようになりたいものです。

 奉献の後の、指の清めのすぐ後で、司祭は次のように祈ります。「聖なる三位一体の神、わたしたちの主イエス・キリストの受難、復活、昇天の記念としてささげるこの供え物をお受けください」15、そしてごミサの終わりには、聖三位一体に尊敬を表す素晴らしい祈りを唱えます。「聖なる三位一体の神、しもべであるわたしの奉仕のわざをこころよくお受けください。値打ちのないわたしが敢えてみ前にお捧げするこのいけにえをお喜びください。御いつくしみによって、わたしとわたしが捧げたすべての人々のために快くお受け入れください」16。

 繰り返し申しますが、ごミサは三位一体の神の働きであって人間の働きではないのです。ごミサをたてる司祭は、自分の体や声をお貸しすることによって主のみ旨に仕えますが、自分の名においてではなく、キリストのペルソナとキリストのみ名において振る舞うのです。

 人間を愛しておられる三位一体の神は、ご聖体に現存するキリストを通して、教会のため、人類のためのあらゆる恩恵を与えてくださいます。マラキが預言した犠牲はこのご聖体のことなのです。「日の出る所から日の入る所まで、諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている」17。聖霊と共に御父に捧げられるキリストの犠牲であり、無限の価値を有する奉献であって、旧約の犠牲では獲得できなかった救いがこの犠牲により、私たちの中で永遠に続くものとなるのです。

ミサと信者の生活

 ミサにおいて、聖三位一体ご自身が教会に与えられますから、ごミサによって私たちは信仰の主要な秘義に導かれることになります。こうして、ごミサはカトリック信者の霊的生活の中心であり根源であることがよくわかります。ごミサはすべての秘跡が目指す秘跡です18。洗礼において与えられ、堅信によって強められ成長した恩恵の生活は、ごミサによって絶頂に達するのです。「ご聖体にあずかることによって、聖霊が私たちを神化してくださっていると感じます。ごミサにおいて聖霊は、洗礼の時のようにただ単にキリストに同化させるだけでなく、私たちをキリストに結びつけ、完全にキリスト化させてくださるのです」19と、エルサレムのキリルスは述べています。

 聖霊を注がれ、キリスト化された私たちは、自分が神の子であることを自覚するのです。愛そのものである聖霊は、私たちが愛に基づいて生活全体を築きあげるようにと教えてくださいます。そして、キリストと「完全に一つに」20なれば、聖アウグスチヌスが聖体について述べているように、私たちは「一致の印、愛のきずな」21になることができるのです。

 ある信者にとってごミサは、社会の因襲とまでは言わなくても、単なる外面的な儀式に過ぎず、またある人はごミサについて極めて貧弱な考えしか持っていない、と私が述べても、別に変わったことを言っていることにはならないでしょう。私たちの心は全く哀れなもので、神がお与えになった最も偉大な賜物にさえも慣れてしまうのです。ごミサ、今捧げるこのごミサには、繰り返して申し上げますが、聖なる三位一体の神が特に介入なさいます。この深い愛に応えるために、心身共に、すべてを捧げる必要があります。神に耳を傾け、神に話しかけ、神を見、神を味わうのです。そして言葉に言い尽くせないときには、元気を出し、全人類に向かって主の偉大さを称え、「口よ、うたえ、光栄ある聖体を」と歌うのです。

ごミサに生きるとは常に祈ることだと言えましょう。常に祈るとは、私たち一人ひとりが神と個人的に出会う機会となるのがミサであるとよく自覚することであり、さらに礼拝と賛美を神に捧げ、神に願い、感謝し、罪の償いをして自己を清め、キリストにおいてすべての信者と完全に一つになることなのです。

 多分、どのようにすれば神のこの大きな愛に応えることができるだろうかと、しばしば考えたことでしょう。また信者としてどのような生き方をすべきかをはっきりと知りたいと思ったこともあるでしょう。答えは、すべての信者にとって実行可能な簡単なことです。つまり、ミサに愛を込めてあずかり、ミサの中で神との交わり方を学んでいけばよいのです。なぜならこの犠牲の中に、主がお望みになることがすべて含まれているからです。

 ごミサがどのように進められて行くかについては、すでによくご存じのことでしょうが、再び繰り返すことをお許しください。ごミサに一歩一歩従って行けば、改善すべき点、根こそぎにするべき欠点、あるいは、あらゆる人々と兄弟愛をもって接するにはどうすべきかなどについて、主が教えてくださるでしょう。

 司祭は、〈私たちの若さを喜びで満たされる神〉の祭壇に近づきます。神がそこにおられますから、ごミサは喜びの歌で始まります。この喜びと感謝と愛は、祭壇に接吻することによって表現されます。祭壇はキリストの象徴であり、聖人たちの形見であり、狭い場所ではあっても無限の効果を有する秘跡の場であるからです。

 コンフィテオル(告白の祈り)を唱えることによって、至らない点を痛悔します。しかし、過失を抽象的に思い出すのではなく、具体的な罪や欠点があることを自覚するのです。そこで、「キリエ・エレイソン、クリステ・エレイソン」(主よ憐れみ給え、キリスト憐れみ給え)繰り返し唱えるのです。もし私たちに必要な罪のゆるしが、私たちの功徳の結果として与えられるものであるなら、心は苦汁に満たされることでしょう。しかし、神は善い御方ですから、そのご慈悲によって私たちはゆるされるのです。それゆえ、グロリア(栄光唱)を称えます。「主のみ聖なり、主のみ王なり。主のみいと高し、イエス・キリストよ。聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに」と。

次いで、聖書の書簡と福音書に耳を傾けます。書簡と福音書朗読は、私たちが理性で悟り観想し、意志が強められ、教えを実行に移すようにと人間の言葉で語りかけてくださる聖霊の光です。私たちは唯一の信仰、クレド(使徒信条)を告白する一つの民、「御父と御子と聖霊との一致において集められた民」22だからです。

 続いて、奉献に入り、人々のパンとぶどう酒を捧げます。供え物はさほど値打ちのあるものではありませんが、祈りと一緒に捧げます。「神よ、悔い改めるわたしたちを、今日、みこころにかなういけにえとして受け入れてください」、 再び自分の惨めさを思い出し、主に捧げられるものがすべて清くあって欲しいという願いが心に溢れ、「私の手を洗い、(…)主の家の美麗さを愛する」と唱えます。

 指を清める少し前に、その聖なるみ名に捧げられるいけにえを祝福してくださいと聖霊にお願いしたばかりですが、清めが終わると、もう一度、聖三位一体に向かいます。「聖なる三位一体よ、われらの主イエス・キリストの受難、復活、昇天の記念として、また、終生おとめである聖マリアと諸聖人の光栄のために、われらの捧げ奉るものを受け入れてください」。

 司祭は「兄弟たちよ、祈れ」を唱えて、この捧げものをすべての人の救いに役立ててくださるように願います。なんとなれば、この捧げ物は私のものであり、あなた方のものであり、聖なる全教会のものだからです。ごミサにあずかっている人がわずかであっても、そこに一人の信者しかいなくても、あるいは司祭一人であっても、「兄弟たちよ、祈れ」と唱えます。どのごミサであっても、普遍的な犠牲、すべての民族と言葉と民と国の贖い23のための犠牲であるからです。

 すべてのキリスト者は、聖徒の交わりによって捧げられるごミサすべての恩恵をいただきます。例え何万人の前で捧げられたごミサであっても、また、たった一人の侍者、多分気を散らしながら司祭を助ける子どもと共に捧げたごミサであっても、その効果はなんら変わらないのです。いずれの場合にも、天と地はひとつになって、主の天使と共に歌うのです。サンクトゥス、サンクトゥス、サンクトゥス、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな…」。

 私は天使と共に神を賛美し、称揚します。天使と共に申しましたが、ごミサを捧げるときは天使に取り巻かれているのですから、別に難しいことではありません。天使は聖三位一体を礼拝しているのです。そして、聖母も何らかの形でごミサに介入されます。マリアは聖三位一体と全く一致しているのみならず、キリストの御母、キリストの御体と御血の母、完全な神・完全な人間であるイエス・キリストの母だからです。イエス・キリストは、男性の介入なしに聖霊の力によって、聖母マリアのご胎内に宿られ、母マリアの血をお受けになりました。そしてその御血こそ、救いの犠牲、つまり、カルワリオとごミサで捧げられる御血であるからなのです。

こうしてカノン(奉献文)に入り、子としての信頼を込めて父である神を、慈しみ深い父とお呼びします。教会とそのすべての成員のため、つまり教皇・家族・友人・同僚のために主に祈るのです。カトリック信者は、その寛い心ですべての人々のために祈るのです。人々を思う熱意から除外される人は誰もいないからです。そして、その願いが聴き入れられるように、光栄ある終生おとめマリアと、キリストに付き従った使徒や、キリストのために殉教した人々を聖なる一致において記念するのです。

 クァム・オブラツィオネム、「神よ、この捧げ物を祝福し(…)」。聖変化のときが近づいてきました。ごミサにおいて、今また司祭を通して、いけにえを捧げるのはキリストご自身です。「これはわたしの体である」、「これはわたしの血のさかずきである」。イエスは私たちと一緒に現存されます。全実体変化(聖変化)によって、神の無限の愛が繰り返し示されます。今日、聖変化が繰り返されるこの瞬間、一人ひとり、心の中で主に次のように申し上げたいものです。「どのようなことがあっても御身から離れまいと思っております。御身は、パンとぶどう酒のもろい外観のもとに、無防備な状態で私共の間に残ってくださいましたから、私たちは自ら進んで御身の僕になります」と。それゆえ、「わたしの心をあなたによって生かし、甘美なあなたを常に味わわせてください」24。

 ここでまた、神に祈願します。お願いせずにはいられないからです。死せる兄弟のためと、私たち自身のために。この機会に、私たちの不忠実と惨めさを捧げることもできるでしょう。私たちが背負う惨めさは大変な重荷ですが、キリストは私たちのために、私たちと共にそれを背負ってくださるのです。聖三位一体の神に向かってもう一つの祈りを捧げ、カノン(奉献文)は終わります。「キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は、世々に至るまで」。

イエスは道であり仲介者です。彼の内にすべてがあり、彼の外には何もありません。キリストに教えられた私たちは、主において、勇気を出して全能なる御方を、私たちの父よ、お呼びします。天と地をお創りになった御方は、深い愛情をもった父で、私たちが放蕩息子のように心を改めていつもみ許に戻るのを待ってくださるのです。

 エッチェ アニュス・デイ、「みよ、神の子羊…。主よ、わたしは主をわが家にお迎えするにふさわしくない者です…」。いよいよ主をお受けするときが近づいてきました。高位の人々を迎えるために灯を燈し、音楽を奏で礼服を身に着けます。心の中にキリストをお迎えするために、どのような準備をしなければならないでしょうか。もし一生に一度しかご聖体を拝領できないとすれば、どのような準備をするだろうか、と考えたことがあるでしょうか。

 子どもの頃には、しばしば聖体を拝領する習慣はまだ広がっていませんでした。人々がどんなに聖体拝領前の準備をしたかを、私はよく覚えています。心も身体も細心の注意を払って備えたものでした。最良の服を身に着け、髪にくしをかけ、身体も清潔にし、時には香水を少しふりかけて…。愛に対しては愛をもってお返しすべきことを知っている人の細やかな心遣い、愛し合う者同士に特有の細やかな心遣いを示したものです。

 キリストを心にいだき、祝福を受けてごミサを終えます。御父と御子と聖霊の祝福が、高貴なあらゆる活動の聖化を目指す、平凡で単純な私たちの一日を守ってくださるのです。

 ごミサにあずかっている内に、神の三つのペルソナ、つまり御子を生む御父、そして御父により生まれる御子、その両者から出る聖霊との交わりを学ぶことができるでしょう。三つのペルソナのどの御方と交わっていても、それは唯一の神と交わっていることであり、三つのペルソナと、つまり三位一体の神と交わっていれば、唯一の真の神と交わっていることになるのです。ごミサを大切にしましょう。ごミサを愛しましょう。心が凍りついていても、感情が伴わなくても心から望み、信仰と希望と強い愛を込めて聖体を拝領しましょう。

イエス・キリストとの交わり

 ごミサを愛さない人、心を落ち着けて静かに信心深く愛情を込めてごミサにあずかる努力をしない人は、キリストを愛しているとは言えないのです。恋人たちは、愛によって優しく繊細になります。そしてしばしば非常に小さいことにまで細やかな心遣いを示すようになります。たとえ小さなことでも、それは愛に溢れる心の表れなのですから。私たちもこのような心でごミサにあずからなければなりません。ですから、短いごミサにあずかりたいと望む性急な人をみると、祭壇上の犠牲の意味するところがわかっていないのではないかと疑いたくなります。

 人間のためにご自分を捧げてくださったキリストを愛するなら、ごミサが終わったあと感謝するため、心静かに親しく主と語らう数分間をもち、ユーカリスチアつまり感謝を、静かに心の中で続けたいと願うことでしょう。その時、どのようにしてキリストに向かいましょうか。どのように主に話しかけましょうか。どのような態度を示せば良いのでしょうか

 信者の生活は厳しい規則に縛られているのではありません。聖霊は人々を十把一絡げにして導くのではなく、一人ひとりが御父のみ旨を感じとり、そのみ旨を実行できるように、決心と霊感を与え、よい感情を注ぎ込んでくださる方だからです。けれども、ごミサの後のキリストとの語り合いである感謝の祈りの中心は、王にして医者、師にして友であるキリストを思い巡らすことであると私は考えています。

キリストは王です。そして、神の子である私たちの心を統治したいと切望しておられます。けれども、人間の統治を想像してはなりません。キリストは支配することも強制することもお望みではありません。キリストが来られたのは「仕えられるためではなく仕えるため」25であったからです。

 キリストの王国とは平和・喜び・正義のことです。王であるキリストは、空しい理屈ではなく、私たちの行いを待っておられます。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」26と仰せになられたからです。

 キリストは医者ですから、キリストの恩恵が心の奥まで注ぎ込まれるにお任せすれば、私たちの利己主義を癒してくださいます。イエスは、最も悪い病は自分の罪をごまかす偽善であり、うぬぼれであると教えてくださいました。医者には正直にありのまますべてを説明しなければなりません。そして、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」27と申し上げなければなりません。御身は、私の弱さも症状もご存じです。こんな弱さにも苦しんでおります。そしてごく素直に傷口も、そしてもし膿が出ていたら、膿もお見せしましょう。主よ、御身はたくさんの人々の心を癒されました。私が御身をお受けするとき、あるいは、聖櫃の御身を眺めるとき、御身が医者である神であることを悟らせてください。

 キリストは、神のみが所有なさる知恵の師です。つまり、神をこの上もなく愛し、神においてすべての人々を愛するための知恵の師なのです。キリストの学校で、私たちの生命は私たちのものでないことを学びます。キリストはすべての人間のためにご自分の生命を捧げられました。キリストに従うのなら、人々の苦しみを顧みずに、自己の内に留まる利己主義は許されないことを理解しなければなりません。私たちの生命は神のものです。それゆえ、人々への寛大な心遣いを示し、言葉と模範でキリスト教の教えの深さを示し、人々への奉仕のために挺身しなければならないのです。

 私たちがキリストの知恵を得る望みを増すように、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」28と、イエスは繰り返し仰せになります。そこで、自分を忘れてあなたとすべての人々のことを考えることができるようにお教えくださいと、私たちは主に申し上げます。こうして神は、恩恵によって導いてくださることでしょう。幼い頃、先生の手を借りながら幼く拙い字を書いたのを憶えているでしょう。あの時のようにイエスは私たちを助けてくださるのです。そして、神のもう一つの贈り物である私たちの信仰を表す幸せが味わえるのみならず、キリスト教的な振舞いというしっかりとした文字を書き記すこともできるようになり、人々はそれを見て神の働きの素晴らしさを読みとることでしょう。

 キリストは唯一の友です。「あなたがたを友と呼ぶ」29と主はおっしゃっています。友と呼び、ご自分から近寄り、私たちを愛してくださったのです。しかし、愛情を押しつけるのではなく捧げ、その愛の最も確かな印をお示しになりました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」30。 キリストはラザロの友人でした。ラザロの死を悼み、ラザロを復活させたのです。私たちが冷淡になり意欲を失ったとき、あるいは内的生活の末期症状ともいえる私たちの硬直状態をご覧になれば、キリストはお泣きになり、その涙によって私たちは蘇ることでしょう。「あなたに言う。起きて、床をとって歩きなさい」31。死同然の硬直状態から抜け出しなさい、と言ってくださるのです。

聖木曜日の黙想も終わりに近くなりました。主の助けがあれば ― 素直に心を開きさえすれは、主は常に助けてくださいます ― もっと大切なこと、つまり愛に応えなければならないと強く感じるようになります。人々に仕えることによって、人々の間にキリストの愛を広めなければならないこともわかってくることでしょう。あの晩さんの夜、弟子たちの足を洗った後、「わたしが(…)模範を示した」32とイエスは強調なさいます。傲慢や野望や支配欲を心から追い払いましょう。そうすれば一人ひとりの犠牲に根づいた平和と喜びは、私たちのみでなく、私たちの周囲の人々にも満ち溢れることでしょう。

 最後に、神の母であり、私たちの母である聖マリアのことを子どもとしての愛情を込めて考えてみましょう。もう一度幼い頃のことを話すことをお許しください。聖ピオ十世が、しばしば聖体拝領をするようにとお勧めになったとき、私の故郷では、マリアが聖体を礼拝しているご像が流行していました。いつの時代もそうですが、今日もマリアは一日の出来事を通して、特に現在と永遠が一致する厳かなミサの犠牲において、イエスにどのように接すればよいのか、どうすればキリストを認め、キリストに出会うことができるかを教えてくださいます。そして永遠の司祭であるイエスは、すべてをご自分のもとに引き寄せ、聖霊の息吹で、父である神のみ前に導いてくださるのです。

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