心戦

1971年4月4日 枝の主日


キリスト教のすべての祝日同様、今日迎える祝日は平和の祝日です。古から象徴的な意味を有するオリーブの枝を見ると、創世記の次の場面を思い出します。「更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った」1。神とその民との契約が、今、キリストにおいて固められ確立されたことを思い出します。キリストにおいてというのは、「キリストはわたしたちの平和」2であるからです。古きものと新しきものとが素晴らしい形で一致・結合しているという事実、これこそ聖なるカトリック教会の典礼の特徴ですが、その典礼には、次のような喜びに満ちた言葉がみられます。「ヘブライ人の子らは、オリーブの枝をもって主を迎え、天の高き所にホザンナ、歓呼した」3。

 馬小屋でお生まれになったときお受けになった歓呼、そのイエス・キリストを歓呼する声が心のなかに大きく響いてきます。「イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。『主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光』」4。

地に平和

 天に平和。しかし、この世にも目を向けてみましょう。地上にはなぜ平和がないのでしょうか。確かに、平和を見つけることはできません。あるのは、上辺だけの平和、恐れが動機となっている均衡状態、あてにならない約束だけです。教会にも平和はありません。キリストの花嫁の汚れのない衣裳は引き裂かれているのです。人々の心にも平安を見つけることはできません。人々は心の不安をなんとかしようと奔走しますが、いつも苦い後味を味わうのみですから、満たしてくれるはずもないつまらない慰めで、いたずらに心を満たそうとするばかりです。

「棕櫚の葉は、勝利を意味する故に敬意を表すしるしである。主は十字架上で死去することによって勝利を得んばかりだった。十字架のしるしを以て死の帝王・悪魔に打ち勝たんばかりであった」5と聖アウグスチヌスは書いています。キリストは、人々の心に積りつもった悪意と戦ったが故に勝利を得、勝利を得たが故に私たちの平和なのです。

 キリストは、私たちの平和であると同時に、道でもあります6。平和を望むならキリストの跡に従わなければなりません。平和とは、戦い、つまり徳を修めるための内的戦いの結果として得ることができるものです。キリスト信者は、高慢・官能・利己主義・浅薄・狭い心に対して、つまり、神からではないものすべてに対抗して戦わなければなりません。「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来る」7ものですから、心の奥底に良心の平安がなければ、いくら外面的な安らぎを叫び求めても無益なのです。

戦い ― 愛と正義の約束

 この戦いという言葉はもう使い古され廃れてしまったのではないでしょうか。あるいは、似て非なる科学の衣裳でもって、個人的な失敗を覆い隠すような言葉にとって換えられたのではないでしょうか。暗黙のうちの合意があって、本当の善とは、何でも買うことのできるお金、現世の権力、常に高位に居続けるずる賢さ、自分は大人であると考え、また、聖なるものは〈時代遅れ〉だと考える浅薄な知恵ではないのでしょうか。

 私は元来悲観論者ではありません。信仰の教えによって、キリストは決定的な勝利を得た上に、その勝利の証拠として、一つの命令をお与えになったことを知っているからです。その命令は同時に約束でもあります。つまり、戦うこと。キリスト信者は神の恩恵の呼びかけに応えて、自由に愛の義務を受け入れました。その義務に動かされ、私たちは執拗な戦いに向かいます。なぜなら、私たちには人々と同じ弱さがあることがわかっているからです。しかし、それと同時に、手段さえ講ずれば、地の塩・世の光・世の酵母となることもできる、つまり、神をお慰めすることさえできることを忘れるわけにはいきません。

 神の愛に留まるべく努力を続け堅忍しようという心づもりは、正義に適う義務でもあります。そしてすべての信者に共通のこの義務は絶えず戦うことによって果たすことができるのです。聖伝によると、信者は、自己の悪への傾きと戦い続ける一方、人々に平安をもたらす兵士であると教えています。ところが、超自然の見方を欠いたり、冷えきった信仰を持っていたりするため、人々は、この世における生活は戦いであることをなかなか理解しようとしません。信者はキリストの兵士であると考えれば、信仰を、暴力や派閥という現世的な目的を達成するための手段にすることになるのではないかと、悪意に満ちた解釈をするのです。このような考え方は、悲しむべき単純化であって、あまり論理的とは言えませんが、大抵の場合、安楽で臆病な態度から生まれます。

 狂信ほどキリスト教と似ても似つかないものはありません。狂信とは、どんな種類のものであれ、現世的なものと霊的なものとを変な具合に調和させようとする態度であります。しかし、戦いということをキリストの教えに従って解釈すれば、狂信に陥る危険など皆無です。キリストのお教えになる戦いとは、自分自身との戦い、利己主義を放棄するための戦い、人々に仕えるための戦いであるからなのです。理由の如何を問わず、この戦いをあきらめるなら、初めから敗北と壊滅を認め、信仰を失い、落胆し、つまらない快楽に浮身をやつすことになります。

 神のみ前で、また信仰を同じくする兄弟と共に続ける霊的な戦いは、キリスト信者にとっては必要事、信者として当然の義務なのです。それゆえ、もし戦わない人があれば、その人はキリストを裏切るのみでなく、キリストの神秘体、つまり教会をも裏切ることになるのです。

不断の戦い

 キリスト信者の戦いは絶え間なき戦いです。内的生活にあってはいつまで経っても何度でも始める必要があるからです。そして不断の戦いがあれば、高慢にも自分はもう完全だと考えることはなくなってしまいます。道を進むにあたって数多くの困難を避けることはできません。障害に出くわさないということになれば、それは私たちが生身の人間ではないと言うに等しくなるでしょう。人を卑しいものの方へ引っ張る欲情はいつまで経っても消えるものではありませんから、程度の差こそあれ、そのような激しい欲情から身を守る戦いをいつも続けなければならないのです。

 傲慢や官能、妬み、怠惰、また他人を征服したいという欲望の棘が、心と身体に刺さっていることがわかっても、大発見をしたことにはなりません。それは個人的な体験によって確認済みの、昔からある悪なのです。この棘こそは、心の中のこの戦いを通して、御父の家に至るまでの競走に勝利を得るための出発点であり、競走の場なのです。「わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます」8。

 キリスト信者であれば、戦いを始めるために、外的なしるしや、乗り気になるのを待つべきではありません。内的生活は気分や気持ちの問題ではなく、神の恩恵および愛、すなわち意志の問題だからです。弟子たちは皆、キリストに付き従うことができましたが、それは、エルサレムでの凱旋のときだけであって、十字架の死刑のときには、ほとんど皆がキリストを置き去りにしてしまったのです。

 本当に愛するには、信仰と希望と愛の徳にしっかり根差した心を持ち、逞しく、忠誠でなければなりません。中身のない軽薄な態度だけが、軽々しく愛の対象を変えてしまいます。しかもそのような愛は実は愛とは言えず、自分のことしか考えない利己的な埋め合わせにすぎないのです。愛のあるところには、依託・犠牲・努力・自己放棄を辞さない堅固さもあります。そして依託と犠牲と自己放棄の生活をしていれば、困難にさいなまれても、幸せと喜びを得ることができます。しかもその喜びが取り去られることは決してないのです。

 痛悔の心を持ち、生活を改める良い決心を立て、ゆるしの秘跡を通して神の許に馳せよれば、この愛ゆえの戦いの間に、過失、それも重大な過失を犯しても悲しみを覚えることはないでしょう。キリスト信者は汚点のない偏執的な収集家ではないのです。わが主イエス・キリストはヨハネの純潔と忠実にいたく心を動かされましたが、失敗のあとのペトロの痛悔にも心を打たれたのです。イエスは私たちの弱さをご存じですから、私たちが毎日少しずつ執拗に坂道を上るようお望みになりますが、ゆるやかな坂道を越えて少しずつご自分の方へ向かうよう引き寄せてくださいます。エマオの二人の弟子をご自分から捜しに出ていかれたように、また、トマスを捜し、御手と御脇腹の傷をお示しになり、手を入れるようにとおっしゃったように、私たちを捜しておいでになります。我々人間の弱さをご存じだからこそ、イエス・キリストは私たちが主の許に戻るのを待ってくださるのです。

心戦

「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい」9と聖パウロは勧めています。キリスト信者の生活は、戦い・戦争、つまり美しい平和の戦いであって、人間の引き起こす戦争のことではありません。人間の戦争は分裂に始まり、憎悪に鼓舞されたものですが、神の子の戦いは自己愛との戦いであって、一致と愛を基とします。「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ」10る 。ここでいう戦いとは、うぬぼれ、悪へ向かわせる勢力、思い上った理性に抗する休みなき前哨戦のことなのです。

 私たちの主が人間の救いにとって重要な季節をお始めになる枝の主日には、上辺だけの浅はかな考えを捨てて、中心になるもの、本当に大切なものに向かいましょう。私たちの狙いは天国に入ることなのです。万一、天国に入れないとすれば何をしても無駄に過ぎなくなります。天国に入るためにはキリストの教えに忠実でなければなりません。そして、忠実であるためには、永遠の幸せの邪魔をする障害に対抗して、絶え間なき戦いに没頭しなければならないのです。

 戦いについて話すと、すぐに私たちの弱さを頭に浮かべて、戦う前から失敗や過ちのことを考えてしまいます。しかし、神はそれもよくご存じなのです。また道を歩む限り、どうしてもほこりを巻き上げてしまいます。私たちは創られたもの、欠点だらけの存在であって、いつまで経っても欠点を取り除くことはできないと申し上げたいのです。しかし、それらは魂のかげりであって、そのおかげで、それとは対照的に、神の恩恵と神の恵みに応えようとする私たちの努力が光と輝きを帯びてきます。しかも光と陰、つまり私たちの努力と過ちのおかげで、私たちは親切と謙遜・理解力と寛大さを備えた人になることができるのです。

 自分を欺かないようにしましょう。人生にはさっそうとしたところや勝利があるのと同じく、落ちぶれたところや敗北もあります。キリスト信者の一生、列聖された聖人の人生行路も常にこのようなものでした。ペトロやアウグスチヌスやフランシスコのことを覚えているでしょう。母の胎内にいるときから恩恵に固められていたかのように聖人の偉業を語る伝記類は読むにたえません。それは素朴な心から出たものですが、同時に、教理の知識が不足していた結果生まれたものです。キリストの英雄たちの本当の伝記は私たちと同じなのです。彼らとて戦っては勝利を得、また戦っては敗北を喫したものです。そして敗れたときは、痛悔の心をもって再び戦いに赴いたのです。

 敗北の憂き目に遭えばいつも心に痛みを感じることでしょう。しかし大抵の場合、というより、いつもはあまり大切でない敗北に違いありませんから、驚く必要はないのです。神の愛があり、謙遜と堅忍の心があり、執拗に戦いを続ける限り、このような敗北もたいして重大な意味を持つことはありません。戦い続ける限り、いずれ勝利が訪れるからです。しかもその勝利は神の目にとっては栄光であります。神のみ旨を果たそうと望みつつ、無力な自分に頼らず神の恩恵に頼って、しかも正しい意向を持って振る舞うならば、失敗などあり得ないのです。

ところが、キリストの教えを完全に実行しようとする望みに反抗する強力な敵、傲慢が待ち構えています。しかも、失敗と敗北の後で主の優しい御手と慈悲とを求めないと、この傲慢という敵は勢力を増してくるのです。そうなると、魂はうら悲しい暗闇に覆われ、自分はだめだと考えてしまいます。そのうえ少しでも謙遜になれば、すぐに障害でないことがわかるはずなのに、そうなれないがために想像力はありもしない障害をでっちあげていきます。傲慢な想像によって魂は時として複雑なカルワリオに包まれてしまうのです。ところが、キリストはそのようなカルワリオにはおいでになりません。たとえ魂が暗闇に囲まれ、苦痛に打ちひしがれていても、主がおられるところでは平和と喜びを味わうことができるはずだからです。

 私たちの聖性を妨害するもう一人の偽善的な敵がいます。それも傲慢のもう一つの現れですが、内的戦いとは特別の障害、火を噴く竜に立ち向かうことだと考えてしまうこと、つまりラッパを吹いて鳴り物入りで、派手に戦おうとする態度のことです。

 岩にとって一番の大敵は、つるはしや斧でも、ほかの鋭い道具でもありません。大敵は岩の割れ目に一滴ずつ浸入し、やがて、岩の構造を破壊してしまう水滴なのです。

 キリスト信者にとって最大の危険は、小競り合いを軽視する態度ですが、そのような態度は徐々に魂を侵し、ついには脆くて弱い人、神の声に無関心で鈍感な人にしてしまいます。

 主のおっしゃることに耳を傾けましょう。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」11。主は次のようなことを思い出させようとしておられるようです。つまらないことだと思うだろうが、私からみればいずれも偉大なことであるから、小さなことにおいて絶えず戦いなさい。時間通りに義務を果たしなさい。たとえ心に痛みを感じていても微笑みを必要とする人には微笑みかけなさい。祈りに必要なだけの時間を惜しまずに費やしなさい。助けを必要とする人には助けの手を差し伸べなさい。正義にかなった行いだけで満足せずに、愛徳を実行しなさい。

 他にもありますが、今述べたような事柄こそ、克己というこの超自然のスポーツにおいて勝利を得るため、練習に励めと促す無言の勧めであり、霊感なのです。神の光に照らされ、主の警告に気づくことができますように、神がお助けになりますように。そして勝利を得たとき、主が私たちの傍らにおいでになりますように。倒れたときにお見捨てになることがありませんように。このような神の助けがあれば、いつも立ち上がり、戦い続けることができるでしょうから。

 じっとしているわけにはいきません。もっと迅速に、もっと強く激しく、さらに広範囲にわたる戦いを続けるよう、主は願っておられます。自己を改善し続けなければなりません。この戦いの唯一の目標は、天国の栄光に到達することだからです。万一天国に入れなかったとすれば、すべてが無駄になります。

恩恵の泉 ― 秘跡

 戦いを望む者は手段を選びます。そして、二十世紀にわたるキリスト教の歴史を通して、祈りと犠牲と秘跡が内的戦いの手段であることに変わりはありませんでした。ところで、犠牲は感覚による祈りですから、これらの手段を祈りと秘跡の二語に要約することができます。

 神の憐れみのこの上なき顕れであり、神の恵みの泉である秘跡について考えたいと思います。ピオ五世の公教要理(ローマ公教要理)にある秘跡の定義をゆっくりと黙想しましょう。秘跡とは「恩恵を表し同時にそれを生じさせる、いわば眼前におき感覚に訴えるしるしである」12。私たちの主は無限の御方であり、その愛の尽きることはなく、その寛大さと慈悲の心に限りはありません。そして、ほかに多くの方法で恩恵を注いでくださりはするものの、誰もがいつも簡単に近づき、救いのみ業の功徳にあずかることができるように、超自然の恩恵を示し、それを与える七つのしるしを、わざわざ私たちのために制定してくださいました。

 秘跡をおざりにすると、真のキリスト教的な生活はできなくなります。それにも拘わらず、昨今特に、キリストの救いの恩恵を忘れ、果ては無視する人々が目につきます。伝統的にキリスト教を信仰する国々で見られるこのような傷に触れるのは悲しいことです。しかし、もっと愛を込めもっと感謝の心を持って、聖化の源である秘跡に近づこうという望みを心の中にしっかりと刻むためには、事実を無視することはできないのです。

 生まれたばかりの子どもたちの洗礼も、ためらいもなく遅らせてしまいます。子どもたちは原罪の汚れに染まったままで生まれます。ところがその子どもたちに、この上なく貴重な宝である三位一体の神と信仰の恵みを与えないようにするのです。これは正義と愛徳に反することではないでしょうか。聖伝の一致した教えによれば、堅信は内的生活を強め、聖霊を静かに豊かに注ぎます。その結果、信者は超自然的に強められ、キリストの兵士として自己愛と欲情に抗して戦うことができるようになります。ところが、この堅信の秘跡に固有な本質を見失う傾向さえみられるのです。

 聖なるものに対する感受性を失えば、ゆるしの秘跡の大切さは理解できなくなるでしょう。告解は神との話し合いであって、人と人との話し合いではありません。この秘跡は神の正義を確実に行う裁判であると同時に、「悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」13裁判官を有する、慈悲深い裁判なのです。

 主の慈しみに限りはありません。なんという細やかな心でご自分の子どもたちに接してくださることでしょう。婚姻を、キリストとその教会との一致を表すかたどり14、聖なる絆にしてくださいました。婚姻は偉大な秘跡です。この秘跡のおかげで神の恩恵に助けられ、平和と一致を保ち、聖性の学校となる信者の家庭が生まれます。両親は神の協力者ですから、敬愛という愛すべき義務が子どもたちに課せられるのです。だからこそ以前から第四戒をいとも甘美なる掟と呼んできたのです。神がお望みになるように清い結婚生活を送るならば、家庭は平和で明るく喜びに満ちた安住の地となるでしょう。

信者のある者に、新たな、得も言われぬ方法で聖霊を注ぎ、消えることのない印章を刻むために、主は叙階の秘跡を制定してくださいました。共通の祭司職と職位的祭司職の間には、程度のみならず本質的な相違があります15。叙階の秘跡の印章によってキリストと一体化し、神秘体の頭16であるキリストのみ名において働く司祭となります。聖務者は、キリストの御体と御血を聖別し、聖なるいけにえを神に捧げ、ゆるしの秘跡において罪を赦し、神に関すること17すべて、しかも神に関することのみを、人々に教える聖務を果たすことができるのです。

 それゆえ、司祭はただただ神の人となるべきなのです。司祭を必要としない分野で活躍しようなどと考えるべきではありません。司祭は心理学者でも、社会学者でも、人類学者でもありません。司祭は、兄弟たちの魂を救うもう一人のキリスト・同じキリストなのです。祭司職に没頭する司祭なら、神学に関係のない学問を少し研究したとしても、せいぜい趣味の域を出ないことでしょう。それにも拘わらず、わずかばかりの知識を盾にして、それだけで教義神学や倫理神学の権威者だと思ってしまうことがあれば悲しいことです。賢人面をしてそれでも幾人かの読者や予備知識のない人々を欺きとおすことはできるかも知れません。しかし、結局は諸学問と神学のいずれにおいても無知であることをさらけ出してしまうことでしょう。

 ある聖職者たちがキリストを裏切り、一人ひとりの救いという教会の霊的な目的を、現世的な目的にとってかえ、新しい教会を作りあげようとしていることは衆知の事実です。このような誘惑に抵抗しないならば、聖務を果たさなくなり、人々の信頼と尊敬を失い、教会内に恐ろしい破壊を招くことになるでしょう。そのうえ、不当にでしゃばり、信者だけでなくそのほかの人々の政治的な自由を侵すことになり、遂には、彼ら自身が社会生活に混乱を引き起こす危険人物になってしまうことでしょう。叙階は、信仰を同じくする兄弟たちの信仰生活を助ける司祭を生む秘跡です。しかしある人たちはこの秘跡を新たな独裁制を実現させるための道具にしようとしているようです。

この問題はさておき、素晴らしい秘跡の黙想を続けましょう。今は病者の塗油と称される終油の秘跡を受けて、御父のお住まいに着くまでの旅支度をします。恩恵の浪費とも言えるほどの秘跡であるご聖体によって、恩恵だけでなく、御体・御血・ご霊魂・神性を伴い、実際におられる神ご自身、つまりイエス・キリストご自身を受けるのです。しかも、イエスはごミサの間のみではなく常に現存してくださるのです。

 神の恩恵の通路である秘跡を、すべての信者のために確保するという司祭の責任について、私は何度となく考えました。神の恩恵は一人ひとりを救うために与えられます。各人が具体的援助を必要とするからです。人々を集団として扱うことはできません。一人ひとりの霊魂は、かけがえのない宝、一人ひとりの人間は唯一の存在です。キリストは一人ひとりのために御血を流してくださったのですから、聖職者たちが人々をキリストの愛に結ぶ絆となるべき自分の義務を自覚せず、また、道具にすぎない自分を謙遜に認めて一人ひとりに個人的に近づくことをせず、信者の人間としての尊厳と神の子としての尊厳を損なうならば、不当と言うほかはないでしょう。

 戦いについて考えてきました。ところで、戦いには訓練と適切な栄養が必要です。また病気や打ち身や負傷のときには応急処置も必要となります。秘跡は教会の主たる薬であって、余分なものではないのです。自ら進んで秘跡を放棄するようなことがあれば、イエス・キリストに従うことはできなくなります。生きるために呼吸や血液の循環や光を要するのと同じように、各瞬間に主がお望みになっていることを知るためには、秘跡が必要なのです。

 強くなければ修徳に励むことはできません。ところが、力は創造主に属する能力です。私たちは暗闇であり主は明澄な輝き、私たちは病であり主は逞しい健康、私たちは欠乏であり主は無限の富です。私たちは弱い存在ですが、主は強めてくださいます。あなたはわたしの神、わたしの砦18、私の力はすべて御身から与えられます。キリストの救霊の御血がもどかしげに湧きだすのを邪魔するものはこの世にはありません。しかし、卑賤な人間のことですから目を覆って神の偉大さに気づかないこともあります。だからこそ、特に神の民を霊的に導き仕える、聖務を有する人たち、ひいては全信者に、恩恵の源を絶やさない責任とキリストの十字架を恥じない責任が課せられているのです。

司牧者の責任

 神の教会にあって、キリストの教えにさらに忠実になろうと絶えず努力することは、すべての人々の義務であって、誰も免除されてはいません。信仰の遺産・共通の遺産である信仰と道徳を、忠実に尊重する心や繊細な良心を得るために、牧者自らが戦わなければ、エゼキエルの預言が実現してしまうのです。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した」19。

 厳しい叱責の言葉です。しかし、すべての人々の霊的善に気を配るべき聖職者が、人を再生に導く洗礼の清らかな水、力を与える堅信の聖香油、赦しを与える裁判、永遠の生命を与える食物を奪い取るとすれば、それほど酷い神への侮辱はないでしょう。

 こんなことは、いつ起こるのでしょうか。平和の戦いを放棄したときに起こります。戦わなければ、ただただ人間的な物の見方をする奴隷状態、権力と現世的名誉のみを熱心に望む奴隷状態、虚栄の奴隷状態、金銭の奴隷、欲情の奴隷など、肉の心を縛りつける種々の奴隷状態のいずれかに身を置くことになってしまうのです。

 いつか ― 神はこのような試みをお許しになることがありますから ― 牧者という名に値しない牧者に出会っても驚かないでください。キリストは衰えることのない絶対確実な助けを教会に約束なさいましたが、教会を構成する人間の忠実は保証なさいませんでした。神が要求なさるほんのわずかのことを実行し、聖性への道の障害物を、神の恩恵に助けられて取り除く努力と警戒を怠らなければ、不忠実な人々にも、豊かで寛大な恩恵の欠けることはないでしょう。戦いを続けない人々なら、たとえ高い所にいると思われても、神の目には非常に低い所にいることもあります。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ」20。

 これは、一世紀にサルディスの教会を預かっていた人々に向けた、使徒聖ヨハネの訓戒です。牧者のある者が責任を放棄するような状態は、近代になって始まった現象ではないのです。イエス・キリストが生きておいでになったとき、使徒たちの時代にすでに現れました。自己と戦うことを止めれば、誰一人として確実に救われるとは言えないのです。誰も自分の力だけで救いを得ることはできません。私たちは皆、効果的な手段を用いなければなりません。そしてその手段とは、キリストの支配を容易にすべく心を整える犠牲を実行し、信仰を保存するだけでなく広めるために、昔から変わらない確かな教えを勉強することなのです。

きのう、きょう

 枝の主日の典礼では次の交唱を唱えます。「門よ、扉を開け、永遠の戸よ、上がれ、栄光の王が入る」21。利己主義の城壁内に閉じこもる者は戦場に赴かないでしょう。しかし、要塞の扉を開き、平和の主の入城を認めれば、視力を弱め、良心を麻痺させるあらゆる惨めさに抗する戦いに、主と共に赴くことができるのです。

「古い扉を開け」。戦いに赴けというこの命令は、キリスト教にとっては、永遠の真理であって、別に新しい命令ではありません。戦いがなければ勝利はなく、勝利がなければ平和を得ることはできません。平和がなければ、人間の喜びもただの見せかけ、偽り、不毛の喜びにすぎず、そのような喜びを持っていても、人を助けることも、愛徳の行為や正義の行いも、赦しや憐れみも、神への奉仕も生まれてはこないことでしょう。

 現在、教会の内外で、上に立つ人から下にいる人までが各自の内的戦いを放棄しているようです。武器も装備も捨てて、隷属状態に身を任せる人々が多い印象を受けます。しかも、このような危険はいつもすべてのキリスト信者を待ち伏せています。

 だからこそ、聖三位一体の神に執拗に救いを求め、慈悲を与えてくださるようお願いしなければなりません。教会内外のこのような事情を話すにつけ、私は神の正義を考えて震えあがります。神の御憐れみと慈悲に救いを求め、私たちの罪を見ず、キリストの功徳、そして私たちの母でもある聖マリアの功徳、父とされた太祖聖ヨセフ、諸聖人の功徳を、顧みてくださいと私はお願いしております。

 今日のミサにあるように、戦う望みさえあれば、神はその右手で支えてくださるという確信を持って生きることができます。みすぼらしいろばに乗ってエルサレムに入城された平和の王であるイエスは仰せになりました。「彼(洗礼者ヨハネ)が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」22と。この暴力は他人に対する乱暴ではありません。それは、自己の弱さや惨めさを克服する勇気、自己の不忠実を覆い隠さない勇敢な態度、たとえ周囲の反対があっても信仰を告白する大胆さのことなのです。

 今日も咋日と同じく、人々はキリスト信者の英雄的行為を望んでいます。普通は、毎日の小さな事柄において戦うだけで十分でしょう。しかし、必要なら大きな戦いにおいて英雄的な振舞いが必要です。やむことなく、神の愛のために戦い続ければ、たとえ無意味と思われるような戦いであっても、主は私たち子どもの傍らに、愛に溢れた牧者として常にいてくださいます。「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」、「野の木は実を結び、地は産物を生じ、彼らは自分の土地に安んじていることができる。わたしが彼らの軛の棒を折り、彼らを奴隷にした者の手から救い出すとき、彼らはわたしが主であることを知る」23であろう。

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