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人間が神から離れた状態を黙想させる四旬節の典礼は、時として悲痛な調子を帯びてきます。しかし、この悲劇的な調子は四旬節の結論ではありません。結びの言葉は神が述べられます。そして、その言葉とは救い主の愛と慈悲の言葉、従って、神と私たちの親子関係を確認する言葉なのです。それゆえ、今日、聖ヨハネの言葉を繰り返してみましょう。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです」47。私たちは、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」48と書かれているその託身した神の御子の兄弟・神の子となったのです。
そろそろ結びにしてごミサを続けなければなりません。皆さんの一人ひとりが感謝の祈りを捧げ、主のお望みは何か、どのような決心、どのような心構えをせよとお望みなのかを考えなければなりません。自己を委ね、内的戦いに赴くという超自然的であると同時に人間的な義務に目覚めたあなたに、キリストこそ私たちの模範であることを思い出していただきたいのです。イエスは神でありながら誘惑をお受けになったのですが、それは私たちが勇気を奮い起こして、勝利を確信しつつ戦うことができるためだったのです。イエス・キリストが負け戦をなさることはありません。彼と一緒に戦えば、敗北者になるどころかいつも勝利者に、つまり神のみ旨にかなう子となることができるのです。
喜びの日々を過ごしたいものです。四旬節の典礼に従って良心の糾明をし、自分の生活を省みるとき、満足できる状態ではないことがわかるのですが、それでも私は喜びで一杯です。なぜなら主が私を再び捜し求めてくださっていること、主は今も私の父であることがわかったからなのです。恩恵の光と恩恵の助けによって、何を焼き尽くすべきか、何を引き抜くべきかを見極め、そのすべてを焼き尽くし捨てなければなりません。まだ主に差し上げていないものは何かを見極め、未練を残さず捧げ尽くさなければならないのです。
簡単な仕事ではありませんが、はっきりとした道標を頼りにすることができる上に、私たちは神に愛されているのですから、私たちの内にお働きになる聖霊のなさるままに任せ、自己を浄化しましょう。そうすれば、十字架上の神の御子を抱き、キリストと共に復活することができることでしょう。十字架を通れば復活の喜びにあずかることができるからです。
私たちの母おとめマリア、キリスト信者の助け、罪人の拠り所、あなたの取次ぎによって、御子が聖霊を送ってくださいますように。また力強い歩みを続ける決心が私たちの心に生まれ、初代教会の殉教者の心に平安を与えたあの呼びかけが心の奥底に響きわたりますように。「戻れ。御父がお前を待っておられる」49。
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ミサの間、ヨハネによる福音書の、生まれつきの盲人が奇跡的に癒される場面を朗読しました。そして、人間の不幸を無関心の眼差しでご覧になることのない神の力と憐れみに、私たち一同は感激を新たにしたのです。しかし今は別の点に注目したいと思います。具体的には、神の愛があれば、キリスト信者は他人の置かれた状況について無関心ではいられず、たとえ誰であっても人を尊重するはずであり、反対に神の愛が衰えると、人の良心を荒々しく踏みにじり、気ちがいじみた行動をする危険性を持っていることについて考えてみたいのです。
福音書によれば、「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」1。お通りになるイエス。神の慈愛がこのように簡潔に叙述されているのをみると、私はいつも感嘆してしまいます。イエスは傍をお通りになるだけでも、すぐに人々の苦痛にお気づきになります。それに引き替え、弟子たちの考えはなんと異なっていたかを考えてみましょう。彼らは「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」2と聞いているのです。
邪推
多くの人々、そしてキリスト信者と言われている人々さえも同じような態度をとることがあるのを知って驚いてはなりません。まず、何か悪いことがあると想像するのです。何の根拠もないのに、悪が潜んでいるに違いないと仮定してしまうのです。考えるだけならともかく、その行き過ぎた判断を公衆の面前でためらいもせずに言いふらしさえするのです。
ひいき目に見ても、弟子たちの言動は図々しいとしか言いようがないでしょう。あの時代の社会には ― 現在も同様でこの点についてはあまり進歩していないようですが ― このような態度を行動の規準としていたファリサイ人のグループがありました。イエス・キリストが彼らを非難して言われた言葉を思い出しましょう。「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」3。
名誉に対する計画的な攻撃、非難の余地のない行動に対する中傷。キリストはこのような辛辣な棘のある批判を忍ばれたのです。人間の弱さに由来するとも言える、小さくとも避け難い個人的な落度や、持って生まれた当然の惨めさを自覚しながらも、師のみ跡に従いたいと欲する人々に対して、同じ方法で攻撃が加えられるとしても驚くには当たりません。しかし現実にこのようなことを経験すると、相手が誰であっても、人の名誉を傷つける罪や犯罪 ― 善意に解釈しても、せいぜい陰口としか呼べない行いを正当と認めることはできません。イエスは、もし、家父をさえベルゼブルと呼ぶぐらいならば、その家のほかの者に親切であろうはずがない4と言っておられます。しかも「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」5とも断言されました。
他人に対する偏見に満ちた見方は、一体どこから生まれてくるのでしょうか。ある人々は、自分の偏った見方を変えたくないので、色眼鏡を絶対に外さないようです。正しい意向を持ち得るとか、あるいは少なくとも、よく振る舞うように絶えず努力していることを、最初から無視しているのです。昔の格言によれば、物事の受け入れ方は器によってかわるそうです。つまり、判断する人自身が歪んだものの見方をすれば、その人はすべてを歪めて受け取るという意味です。客観的には確かに正しいことでさえも、このような態度の人々に言わせれば、善良という偽善のべールで覆われているだけで、歪んだ姿が必ず隠されていることになります。大聖グレゴリオは、「あることが正しいとわかった時でも、まだ何か悪いことが隠されているのではないかと詮索する」6と述べています。
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歪んだ物の受け取り方をするのがほとんど第二の天性となってしまったような人々に、隣人の善を考えることが最も人間的であり誠実なのだと理解させるのは、極めて難しいことです。聖アウグスチヌスは次のように忠告しています。「あなたの兄弟に欠けていると思われる徳を自分が実行するように努めなさい。あなたにもその点が欠けているのだから、他人のその不足も見えなくなるだろう」7。ある人々にとって、このような考え方は馬鹿正直としか思えないでしょう。彼らは自分がもっと〈現実的〉であり、〈合理的〉であると思っているからです。
常に偏見に満ちた判断をする人は、訳も聞かずに人を侮辱します。次いで、侮辱された人に対して客観的で善意に満ちた態度を示し、自己釈明の機会を与えようというのです。しかし、自らの憶測を立証しないで、潔白の人にその潔白を証明する特典を与えようという態度は、法と道徳の常識に反するというほかはありません。
今述べたことは法律や道徳の書物から得た知識以上のことであると正直に申し上げるべきでしょう。多数の人々が身をもって体験したことに基づいているからです。多くの人々が、長年にわたって、しばしば、陰口・中傷・名誉毀損などの標的にされて来ました。しかし、神の恩恵と持って生まれた素直な性格のおかげで、悲痛や苦々しさの影も彼らには残りませんでした。聖パウロと共に、「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらし」8ないと言うことができます。もっと平たい表現を用いれば、あんなことは全く取るに足りないことだったのだと付け加えたことでしょう。事実、その通りだったのです。
しかし、その反面、正直者を不当に攻撃することを考えると同情せざるを得ません。不当な攻撃者というのは自らを滅ぼしてしまうことになるからです。また、途方もない勝手きわまる訴えを受けて、何に頼ってよいかわらなくなる大勢の人々を思うと、その苦しみがわかりすぎるほどわかります。彼らは恐怖に慄き、そのようなことがあり得るとは信じられず、悪夢ではないかと考え込んでしまうのです。
数日前のミサの書簡で、情欲の乱れた二人の老人の偽証のおかげで不貞の罪を負わされたスザンナという貞女の物語を読みました。「スザンナは嘆いて言った。『私には逃げ道がありません。もし私があなたたちの言うままになればそれは私にとって死ぬことです。またいやだと言ってもあなたたちの手からは逃げられません』」9。なんとしばしば、潔白な人々が妬み深い人や陰謀家の仕掛ける罠に陥れられることでしょう。神の怒りをかうか、名誉毀損を甘んじて受けるかそのいずれかの選択を迫られるのです。そんな時、「主の御前に罪を犯すより、罪を犯さずにあなたたちの手中におちよう」10という、気高く立派ではあるが同時に大きな苦痛を伴う解決法しか残されていないのです。
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プライバシーの権利
盲人が癒された奇跡の場面に戻りましょう。イエス・キリストは、盲人の不幸は罪の結果によるものではなく、神の力を示す機会であると弟子たちにお答えになりました。そして、いとも簡単に、その盲人を見えるようにしようと決められました。
しかしその途端に、幸福と嵐が同時にその男を襲い始めたのです。誰も彼をそっとしてはおきませんでした。まず、「近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々」11でした。福音書は、彼らが喜んだとは言っていません。前には見えなかったが今見えるようになったのはわたしであると盲人が主張したにも拘わらず、誰もそれを信じようとしなかった、と記しています。幸運を静かに味わえるようそっとしておく代わりに、ファリサイ人のところに連れて行き、事の次第を再び追求するのです。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです」12と、彼は再び答えました。
一大善・一大奇跡が起こったにも拘わらず、ファリサイ人たちは、そんなことは起こらなかったと証明したかったのです。ある人は、偽善的でひねくれた料簡の狭い理屈を並べて、癒されたのは安息日である、安息日に働くことは禁じられているので奇跡ではないと主張しました。別の人々は、今日でいうなら取り調べとでもいうものを始めました。まず本人の両親の所に行って、「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか」13と問いただします。両親は権力ある人々を恐れたので、論理的な安全を保証する条件をすべて備えた答え方をしました。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」14。
その取調べに当たった人々は信じることができませんでした。信じたくなかったからです。「盲人であった人をもう一度呼び出して言った。『神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ』」15。
このように簡潔に聖ヨハネは、人間の基本的権利、つまり尊敬をもって扱われる権利に対する恐るべき不当行為の一例を述べています。
こういう例は、今日でもしばしば見かけられます。他人の私生活を探ろうとする病的なほどの好奇心を指摘することは、今では何の雑作もないことです。犯罪容疑者の取調べにおいてさえ、一つの可能性にすぎないことを確実であると断定しないように、慎重に穏やかに取り調べるためには、多少なりとも正義の意識が要求されます。犯罪であるどころか、れっきとした正しい行いであるはずのものを踏みにじる不健全な好奇心が、どれほど邪悪であるかは全く明らかなことです。
〈プライバシーの売買〉をしているのではないかと疑わざるを得ない人々の追求から、人間の尊厳を守り黙否する権利を擁護する必要があります。この権利擁護という点に関しては、キリスト信者であるなしに拘わらず、良識のある人ならば皆一致しているはずです。というのは、主体性を確立し、むやみに人目にさらされたくない、家族内の悲喜こもごもはそっと秘めておきたいという正当な望みだからです。特に、大騒ぎをしないで善を行い、困っている人に純粋な愛から助けの手を差し伸べても、このような奉仕を公表する義務はないと考えることや、プライベートな心の内を、内的生活を持たず持ちたいとも思わず、不敬にも人々を愚弄すること以外はなにもしない厚顔無知な人間には、さらけ出すようなことはしたくないという思いが踏みにじられるからです。
しかし、執拗に嗅ぎまわろうとする人々から逃れるのはなんと難しいことでしょう。穏やかな生活を脅かす方法が数多く作り出されました。名誉を守ろうと望んでも、なかなかそうはさせないような技術や反論の方法がたくさんあるのです。しばしば、良い行いをする人などいないという前提から話が始まります。この誤った論法に巻き込まれると必然的にメアクルピズム、つまり自己批判に追い込まれます。もし泥を被ってありもしない罪を認めなければ、救いようのない悪人であると言われるだけでなく、さらには、傲慢な偽善者であるとさえ決めつけられてしまうのです。
別の方法で攻撃されることも度々あります。他人を中傷するようなことを書いたり言ったりする人は、「あなた方が高潔の士であることを認めるつもりはある」と言います。しかし続いて、「そのように思わない人々もあり、彼らはあなたがどろぼうであると吹聴することもやりかねません。あなたがどろぼうではないことを、どのように証明されますか」と尋ねるわけです。あるいはまた、「あなたは、自分の行いが清く気高く正しいことを、倦まず弛まず主張して来られました。しかし万が一にも自分の行いが汚れにみち不潔で歪んでいるかも知れないことを考えて、再考していただくわけにはいきませんか」と追求します。
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以上は頭の中で考え出した話ではありません。どんな人でも、あるいは多少とも人に知られた団体であれば、このような迷惑を被った経験を数多く挙げることができると思います。大衆とか一般国民は他人の生活の最も私的な細事に至るまで知る権利を有するという誤った考え方を、一部の人々は広めてしまいました。
私が心に刻みつけていることに一言触れさせてください。お話ししたいのは三十年以上も前からあらゆる機会をとらえて言ったり書いたりして来たことです。オプス・デイは、現世的・政治的な目的を追求するのではありません。諸国・諸民族そしてあらゆる社会的条件の人々に、キリストの救いについての教えとその方法を伝えるべく努力すること、さらに神の愛がこの世により豊かに注がれるよう、従って、唯一の父である神の子としての人間が、互いにもっと平和と正義を享受できるよう貢献すること、これがオプス・デイの唯一の目的です。
世界中の何万人、何百万人の人々はこのことをよく理解しました。数はあまり多くないのですが、どういう訳か、ある人々にはよく理解できないようです。私の心は前者の人々に惹かれますが、後者をも同じように尊敬し愛しております。すべての人は神の子の光栄に召されており、すべてにおいて人格は尊重されるべきであるからです。
しかし、私やその他多くの人々の愛していることをよく理解できない少数派は、いつになってもあるものです。彼らは、超自然的なこととはかけ離れた全く政治的なやり方で、各派の利害関係と圧力の均衡を調整することにのみ関心を持っています。ですから、そのようなメンタリティに合致するような説明しか求めないのです。自分の好みに合わせてでっちあげた誤った説明が得られなければ、嘘がある、秘密が隠されている、悪い計画が潜んでいる、などと考え続けるのです。
このようなことがあっても私は別に悲しくもなければ心配もしない、と申し上げます。さらに一言付け加えると、そのような人たちが隣人に不快感を与え、神に背いて罪を犯すという事実に知らない顔をしてもよいなら、私は笑って済ませることでしょう。生来、私は率直であることを好むので、いかなる隠し立てにも本能的に嫌悪を感じます。他人を中傷した人々が礼儀を心得ず、尊大で敵意にみち、ひとかけらの人間味も持ち合わせてはいなかったとしても、私はいつも真実をもって虚勢を張らず、威張らないで答えようと努めてきました。
私がよく考えることは、奇跡がどのように行われたかを尋ねようとしてやって来たファリサイ人に対して、あの生まれつきの盲人が与えた答えであります。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」16。
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目薬
ファリサイ人の罪は、キリストの神性を認めなかったことにではなく、自己の殻に閉じこもったことにあります。光であるイエスが彼らの眼を開くこと17が、彼らには耐えられなかったのです。このような頑なな心は隣人と接するときにもすぐに影響を与えます。自分たちが光であると信じ込んでいたファリサイ人は、神が彼らの眼をお開きになるのに同意せず、周囲の人々を不公平に横柄にあしらうのです。ですから、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」18と祈ったのです。生まれつき盲人であった人に対しては、奇跡的治癒の事実を説明するように強要するのみならず、彼を侮辱しました。「彼らは、『お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか』と言い返し、彼を外に追い出した」19。
キリストを知らない人の中にも真面目な人は大勢おり、人付き合いにも心がこもり、気持ちよく振る舞います。正直で誠意があり、礼儀作法を心得ています。もしキリストの治療に逆らわなければ、盲目の状態から解放されるはずです。主が、私たちの目に泥をお塗りになるに任せるならば、この泥は主の手において最も効果的な目薬となり、目は清められます。そして、地上の諸現実がもっとよく見えるだけでなく、新たな光・信仰の光によって永遠の事柄もほのかに見えるようになるのです。
キリスト信者としての召命とは、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」20 愛を完全に実行することです。
キリストの愛とは、周囲の人々と気持ちよく接して、博愛主義を標榜するに留まるものではありません。神が霊魂に注入される愛徳は、内部より知性と意志を変え、善を行う喜びと友情に超自然的な基礎を与えるものなのです。
使徒言行録にある足の不自由な人の治癒の場面を想像してみましょう。ペトロとヨハネが神殿にのぼり、通りすぎようとすると、門に座っている一人の男に出会いました。彼は生まれつき足の不自由な人だったのです。みんなあの盲人の治癒のことを覚えていました。それで今、使徒たちはその不幸がその人の個人的な罪や親の過失によるものだとは考えませんでした。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」21と弟子たちが言ったとき、あの盲人に対して抱いていたような無理解は姿を消し、同情に溢れていました。以前は軽率な判断を下しましたが、今は主のみ名によって奇跡的に彼を癒したのです。キリストはいつも私たちの傍を通っておられます。キリストは、弟子たちやキリスト信者に混じって、通りや広場を通っておられるのです。私の言葉に耳を傾けてくださる人々の傍を、今主がお通りになるよう、私は切に願っております。
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