キリスト信者に現存するキリスト

1967年3月26日 復活祭


〈キリストは生きておられる〉。これは信仰の中心をなす偉大な真理であります。十字架上で死去されたイエスは、復活され、闇の力と苦痛と苦悩に対して勝利をかち取られたのです。「恐れることはない」― 天使はこう呼びかけて、墓にかけつけた婦人たちに挨拶しました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」1、「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう」2。

 復活節は喜びの季節であります。しかもその喜びは、復活節の間だけでなく、常に信者の心にある喜びなのです。なぜならキリストは、美しい思い出と素晴らしい模範を残して行ってしまった過去の人物ではなく、今も生きる御方であるからです。

 生きておられるキリスト。イエスは私たちと共にいてくださる神、インマヌエルなのです。神はご自分の民をお見捨てにならないことが、キリストの復活によって明らかになりました。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」3と主は約束してくださいましたが、今その約束は果たされました。神はおも人の子との交流を楽しみにしておられるのです4。

 〈キリストは教会の中に生きておられる〉。「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」5。すべて神のご計画通りでした。十字架上の死を遂げることによって、イエスは真理と生命の霊を与えてくださいました。キリストは、秘跡と典礼、宣教、教会の全活動を通して、教会と共にいてくださるのです。

 特に、毎日ご自分をお与えになる聖体の秘跡において、キリストは私たちと共におられます。だからこそ、ミサ聖祭はキリスト信者の生活の中心であり拠り所なのです。すべてのミサ聖祭に、キリストの頭と体、つまり全キリストが現存されます。「キリストによって、キリストと共に、キリストにおいて」。キリストは道であり仲介者です。キリストにはすべてが見出されます。キリストと一緒でなければ、私たちの生活は空しくなることでしょう。イエス・キリストにおいてこそ、み教えに従って「我等の父よ」と敢えて祈ることができ、天と地の主を恐れずに父と呼ぶことができるのです。

 聖なるホスチアに現存される生けるイエスは、この世におけるイエスの現存の保証・根拠・完成にほかならないのです。

〈キリストはキリスト信者の中に生きておられる〉。信仰によれば、人は恩恵の状態にある時、〈神化〉されていると言われます。私たちは人間であって、天使ではありません。心を持ち、情念に燃え、悲しみや喜びを感じる生身の人間です。しかし〈神化〉は、光栄ある復活に先駆けるかのように、人間全体に影響を与えるのです。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」6。

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」7と、最後の晩さんで使徒たちに約束なさった通り、キリストの生命は私たちの生命となりました。それゆえ、キリスト信者はキリストと同じ心を持ち、キリストに倣う生活をしなければなりません。そうすれば、聖パウロと共に「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」8と叫ぶことができるようになるのです。

イエス・キリスト、信仰生活の基礎

「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」9。キリストが現に生きておられることを、いくつかの面から簡単に考えてみました。これこそ信者の生活そのものの基礎をなす真理であるからです。周囲を見回して、人類の歴史の流れを振り返ってみると、進歩や発展のあったことに気が付きます。科学によって人類は自己の能力を最大限に自覚しました。技術によって過去の時代よりもはるかに自然を支配し、さらに高い水準の文化や物質生活、そして平和に達することを夢みるようになりました。

 現在、人々は不正と戦争に苦しんでおり、その苦しみは時には昔よりはるかに大きく、一概に進歩・発展があったとは言い切れまいと言う人もいることでしょう。そう考える根拠もあります。しかし私は、いずれかの考えを選ぶというのではなく、宗教の分野においては、人間は人間、神は神であることに変わりはなかったことを思い起こしていただきたいと思うのです。宗教面では、アルファとオメガ、つまり初めであり、終わりである10キリストにおいて進歩は頂点に達したからです。

 霊的生活においては、これから向かうべき新たな時代など存在しません。死して復活したキリスト、いつまでも生きておられるキリストにおいて、すべては成し遂げられたのです。ただし私たちは、信仰によってキリストに一致し、キリストの生命が私たちの中に現れるよう努めなければなりません。信者は〈もう一人のキリスト〉というより〈同じキリスト〉、〈キリストご自身〉であると言えるようにならなければならないのです。

「あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」11 。聖パウロはエフェソの信者に、このような標語を与えました。キリストの精神で世界中を満たせ、すべての中心にキリストを据えよ、という意味の標語なのです。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもと引き寄せよう」12。人となられたキリスト、ナザレで日々労働に明け暮れ、ユダヤやガリラヤの地方を巡って教えを説き、奇跡を行い、十字架上で死去し、復活したキリストは、全被造物の長子であり主、創造の業の中心なのです。

 私たち信者の使命は、キリストが王であることを言葉と行いをもって宣べ知らせることです。地上の至るところにご自分の民がいることを、主は望んでおられます。ある人々には、砂漠での生活をお与えになります。人間社会の流転に関わり合わずに、自らの証しによって、人々に神の存在を思い起こさせるために。またある人々には祭司職を託されます。そして大部分をなす残りの人々には、社会の中で諸々の仕事に従事することをお望みになります。従って、これらのキリスト信者は、自己の仕事を展開していくあらゆる場に、キリストの精神を広めなければなりません。工場に、研究所に、田畑に、職人の仕事場に、大都市の街路や山あいの小道にキリストの教えを伝えなければならないのです。

 エマウスに行く途中で、イエスと弟子たちが話し合った場面を思い起こしてみましょう。人生が無意味に見えはじめるほど希望を失っていたあの二人と、イエスは歩みを共にされました。彼らの心痛をよく理解して、心の奥まで見抜き、ご自分の神的生活をいくばくか彼らにお伝えになったのです。

 村に着いたとき、イエスはおも先に行こうとされたので、二人の弟子はイエスを引き止め、無理に、泊まってくださるよう願いました。そして、パンを裂かれたとき、彼らの同行者がイエスであることに気づいたのです。「一緒にいてくださったのはキリストだった」と彼らは叫び、「『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」13のでした。人々にキリストをもたらすのは信者の務めです。人々が、私たちから「キリストのよき香り」14を感じとるように振る舞うのは信者の義務です。使徒である信者の行いの中に、師のみ顔が浮かび上がらなければならないのです。

キリスト信者は、洗礼によってキリストに接ぎ木され、堅信によってキリストのために戦う力が与えられます。また、キリストの司祭・預言者・王としての使命に参与することによって社会で働くように召され、一致と愛の秘跡である聖体によってキリストとひとつになったことを知っています。従って、キリストのように、周囲の人々一人ひとりを、また人類全体を、愛の眼差しで眺め、人々のためを考えながら生きなければならないのです。

 信仰によって、キリストを神として認め、救い主として考え、キリストと同じように行動すれば、キリストに一致することができます。復活されたお方は、ご自分の傷口を示して使徒聖トマの疑いをはらし、叫ばれました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」15。この言葉について、大聖グレゴリオは次のように述べています。「ここでは、特に私たちのことを指しているのだ。その御体を見たこともないお方を私たちは霊的に所有しているからである。私たちのことを指してはいるが、ただし、私たちの行いと信仰が一致している場合に限ってのことである。信じていることを実際に行いとして表さないとすれば、本当に信じているとは言えない。口先でしか信仰を表さない人々のことを聖パウロは次のように言っている。『神を知っていると言うが、その行いによって神を否定している』」16。

 神であり人であるキリストと、その救い主としての使命を別々に考えることはできません。み言葉は人となり、この世に来られましたが、それは「すべての人を救う」17ためでした。個人的な惨めさや限界があったとしても、私たちはすべての人々に奉仕するように召されたもう一人のキリスト、キリスト自身なのです。

 新しい愛の掟は、いつになっても何度でも繰り返し響き渡らなければなりません。ヨハネが書き送っています。「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません」18。

 全人類に、平和と福音と生命をもたらすために主は来られました。金持ちのためだけではなく、貧しい人々のためだけでもありません。賢い人々のためだけではなく、素朴な人々のためだけでもありません。兄弟である全人類のために来られたのです。私たちは皆、同じ父である神の子ですから兄弟なのです。従って、神の子という人種だけしか存在しないのです。肌の色も同じく、神の子の肌色しかありません。言葉も一つだけで、それは心に無言のうちに語りかけ、神について教え、互いに愛し合うようにさせる言葉のことです。

キリストの生活を黙想する

私たちがそれぞれ生活の場で実行しなければならないのは、このキリストの愛であります。そして、〈同じキリスト〉になるためには、キリストを見習わなければなりません。イエスの実行された精神を、ただ一般的に知っているだけでは十分ではなく、イエスのご生活の細かい点や態度までも学ばなければなりません。力と光、冷静さと平和を汲みとるために特にそのご生涯について黙想する必要があるのです。

 人を愛すると、その人の生活や性格をすべて知ろうと望み、最後にはその人と同じようになりたいと思うものです。イエスを愛する私たちも、馬屋でのご誕生から、ご死去、ご復活に至るまで、イエスの全生涯を黙想しなければなりません。私が司祭生活に入った最初の頃には、福音書やキリスト伝を贈り物にしたものです。キリストのご生涯についてはよく知っておかなければならないからです。それもすっかり心に刻みつける必要があるのです。どんな時でも、書物に頼らずに、ただ眼を閉じるだけで映画でも見ているかのように、主のご生涯を思い浮かべることができるためです。そうすれば、私たちは生活のどのような場にあっても、主のお言葉やみ業を思い浮かべることができるからです。

 こうして、キリストのご生活に入り込んでいる自分を知ることでしょう。ただイエスのことを考え、そのご生活を想像するばかりではないのです。私たちはその場面に入って、登場人物の一人となるのです。聖母マリアのように、十二使徒のように、聖なる婦人たちのように、イエスのまわりに押し寄せた群衆のように、イエスの傍にいてそのみ跡に従わなければなりません。このように振る舞い、邪魔をしなければ、キリストのみ言葉は心の底まで染み透り、私たちを変えてしまうことでしょう。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」19。

 人々を神のもとに引き寄せたいと思うならば、福音書を手にとって、キリストの愛について黙想しなければなりません。「友人のために生命を与える以上の大きな愛はない」20と御自ら言われましたから、ご受難が最高潮に達した場面を特に注目することもできるでしょう。しかし、主のご生涯の他の場面や、イエスと行き交う人々との日常の付き合いなどについても考えることができます。

 完全な神であり完全な人であるキリストは、救いの教えを人々に伝えるために、そして神の愛を人々に示すために、人間的であり神的でもある方法を選ばれました。その方法とは、人となることを受諾され、罪以外は、人間の本性をすべて所有なさることでした。

 キリストが私たちと同じ肉体をもった人間になられたことを考えると、心の底から喜びが湧きあがってきます。神が人の心で愛してくださるとは、考えるだけでも素晴らしいことではないでしょうか。

福音史家の述べる多くの場面の中から、いくつかを選んでゆっくり考えてみましょう。まず、十二使徒はイエスとどのように接したのでしょうか。生涯の経験を福音書の中に織り込んだ使徒聖ヨハネは、忘れ得ないあの最初の魅力的な対話を書き残しています。「『ラビ―“先生”という意味―どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった」21。

 それは、ヨハネやアンデレ、ペトロやヤコブ、その他の多くの者の生活を変えた神と人との対話であり、ガリラヤの浜辺における、イエスの力強い呼びかけに応えることができるよう、弟子の心を準備した対話だったのです。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った」22。

 後に続く三年間、イエスは弟子たちと共に生活され、彼らをよく知り、その質問に答え、疑問を解決なさいました。権威をもって話すこのラビ、この先生は確かに神から遣わされた救い主です。しかし同時に、親しみのある、話しやすいお方でした。ある日、イエスが祈りをするために退かれたときのことです。弟子たちはお傍近くにいて、おそらく、イエスを見つめて、何を言っておられるのか当てようとしていたのでしょう。イエスが戻って来られると、その中の一人が尋ねます。「『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。そこで、イエスは言われた。『祈るときには、こう言いなさい。“父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように(…)”』」23。

 神としての権威をもって、また人としての愛情をもって主は弟子たちを等しく受け入れておられました。彼らが最初の宣教の成果に驚いて、使徒職の素晴らしさについて話し合っていたとき、その彼らに、「人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」24と言われたのです。

 これによく似た場面が、ご昇天の少し前、イエスの地上での滞在もあとわずかに迫った頃に繰り返されます。「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ』。そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、『今とった魚を何匹か持って来なさい』と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」25。

 イエスは、小さなグループの弟子たちばかりにではなく、すべての人々に、このような愛情や思いやりをお示しになりました。聖なる婦人たちに、ニコデモのような衆議所の議員に、ザケオのような税吏に、そして病人にも健康な人にも、律法学士や異教徒にも、その一人ひとりに、また群衆全体にも愛をお示しになったのです。

 福音書には、イエスは枕するところさえなかったと記してありますが、イエスを愛し、信頼し、是非お世話したいと望んだ友人がいたことも書いてあります。さらに、病人に対する御憐れみ、無知な人や過失を犯した人々へのご心痛、偽善に対するお怒りについても述べてあります。イエスはラザロの死に際して涙を流され、神殿をけがす商人には立腹され、ナイムの寡婦の心痛をご覧になって心を打たれたのです。

このような人間的な表情の一つひとつが神の表情でもあります。「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿って」26いる。 キリストは人となられた神です。完全な人であり、人そのものなのです。人間としてのご生活を通して、ご自分が神であることを示してくださるのです。

 人々への奉仕のために、生涯を捧げられたキリストの思いやりを黙想する方が、私たちのとるべき動作や行動をあれこれ述べるよりもずっと役に立ちます。私たちはイエスの中に神を発見していくのです。キリストのみ業にはすべてに勝る超越的な価値があります。キリストは、神がどのような御方であるかを教えてくださり、人間を創り、神の深奥の生命にあずからせようとお望みになる神の愛を信じるように誘いかけておられるからです。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています」27。福音史家ヨハネが伝えている長い祈りの中で、イエスはこう叫ばれました。

 それゆえ、イエスの人々に対する関係は、口先や上辺だけの態度に終わるものではありませんでした。イエスは人間のことを真剣に考え、人の生活の神的意味をお示しになりたいのです。いとも聖なる神を知るよう導くために、イエスはご自分に耳を傾ける人を安易な生活や妥協から引き離して、厳しく急き立て、彼らに自分の義務を果たすよう要求されるのです。イエスは空腹や苦痛に心を動かされましたが、特に無知に同情なさいました。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」28。

日常生活での実践

人々と交わるイエスを黙想するため、また私たち自身がキリストになって、兄弟である人々にキリストを知らせるにはどうすれば良いかを学ぶために、福音書の数頁に目を通してみました。この教えを各々の日常生活で実行しましょう。社会人として、また同僚の間で過ごす生活は、普通のありふれた生活であっても、決して平坦な深みのないものではありません。まさに、この生活においてこそ、大多数の神の子どもたちが聖人になるのを神はお望みになっているのです。

 イエスは、特に恵まれた人々だけに向かって話しかけられたのではなく、神の広く大きな愛を証すために来られたということを絶えず繰り返して教える必要があります。人は皆神に愛され、そして神は、個人的な事情や社会的条件、職業、仕事を問わず、すべての人間からの愛を待っておられるのです。平凡な日常生活に価値がないとは言えません。地上での道はすべて、キリストとの出会いの道です。各々が置かれた場所で神から託された使命を果たし、キリストに一致するために、私たちはキリストに招かれているのです。

 日常の出来事や、一緒に生活している人々の喜びや悲しみのうちに、同僚の人間的な熱意や家庭の小さな出来事を通して、神は私たちを呼んでおられます。さらに、各時代の歴史を特徴づけ、人類の大多数の人々の努力や夢を引きつける大きな問題や葛藤、課題などを通して、私たちを呼んでおられるのです。

人間の作り出す個人的・社会的不正を前にして、もともとキリスト的な心を持っている人29の感じる、我慢できないもどかしさや苦悩、焦燥感はよく理解できます。何世紀にもわたる人類の共存生活にも拘わらず、目があるのに見ない人、心があっても愛さない人々は、まだまだ憎悪や破壊、狂気の沙汰をやめようとしない状態にあります。

 この世の富は少数の人々の間で分配され、文化財も一部の人が握っています。そしてそれ以外のところには、食べ物と知識への飢えがあるばかりです。人間の生活は神から出たもので聖なるはずですが、実際には、統計表の項目とかその数字としてしか扱われていないのです。このような現状を眺めると、先に述べたもどかしさがわかり、それに共感を覚えます。すると、これが動機となって、〈新しい愛の掟〉を実行するよう絶えず私たちに誘いかけておられるキリストの方に視線を向けるようになるのです。

 日常生活のいろいろな出来事から、神の意向を悟ることができますが、同時に人々を愛し人々のために献身しなければならないことも理解できます。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』。すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか』。そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』」30。

 兄弟である人々を見て、私たちとの出会いを求めて来られるキリストに気づかなければなりません。誰の生活であっても、決して孤立したものではなく、周囲の人々の生活と密接に結びついています。どんな人もばらばらに分かれた一行の詩ではなく、皆が〈神の詩〉の一部を構成しています。私たちの自由意志に基づいた協力を得て、神はそれを書き上げて行かれるのです。

キリストの熱意に無関係なものは何もありません。神学的に説明するならば、ひとたび、神のみ言葉・キリストが人々の中に降り、飢えと渇きをおぼえ、自ら労働し、友情や従順を学び、苦しみと死を経験されて以来、厳密に言って、善良なこと、気高いこと、あるいは善でも悪でもないことでさえ、神とは全く無関係であるとは断言できなくなりました。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられ」31たからなのです。

 私たちは、社会も仕事も人生の出来事をも愛さなければなりません。この世は良いものですから。しかし、アダムの罪は創られたものの神的調和を乱してしまいました。そこで、父である神は平和を取り戻すために独り子をお遣わしになりました。神の養子になった私たちを、被造界の無秩序から解放し、すべてを神と和睦させるためだったのです。

 一所懸命に生き、キリストの精神を実現することができるよう唯一の召し出しによって、私たちはさまざまな状況に置かれますが、この各瞬間の状況は一度限りで、二度と経験することのできないものです。同僚の間で、どこと言って変わったところがないながらも、信仰に一致した毎日を送るならば、私たちは〈人々のうちにおられるキリスト〉になることでしょう。

神がお与えになる使命の尊厳を考えると、人はうぬぼれや傲慢の心を持つかもしれません。しかしそのような心は、キリスト信者としての召し出しを誤解している証拠であって、私たちが泥からできており、塵の如く哀れな存在にすぎないことを忘れてしまっているのです。悪は、私たちの周囲にあるのみならず、私たち自身の中に存在し、心をむしばみ、卑劣な振舞いや利己主義に向かわせるのです。神の恩恵のみが堅固な岩と呼べるものであって、私たちは砂、しかも流され易い砂にすぎないことを、知らなければなりません。

 人類の歴史や世界の現状を見ると、二十世紀経った今でもキリスト者と言える人はあまりに少なく、キリスト者という呼び名で自己を飾りながら、しばしば、その使命に不忠実な人々の多いことがわかり、心を痛めずにはいられません。何年か前、悪意はないが、信仰もないある人が世界地図を指して、私に次のように言ったことがあります。「キリストの失敗をご覧なさい。何世紀にもわたって人々の心にその教えを吹き込もうと努めて来ましたが、結果はどうですか。キリスト教徒はいないのです」と。

 今日でもこのように考える人はいます。しかしキリストは失敗なさったのではありません。キリストの言葉と生活は今も絶えず世を豊かにしています。キリストのみ業、御父がキリストに託された使命は実現されつつあります。その力は歴史を貫き、真実の生命をもたらしました。「すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」32。

 神は私たちを、この世で実現しつつある救いのみ業の協力者にしようとお望みになり、〈危険を承知の上で私たちの自由に賭けよう〉とお決めになりました。ベトレヘムでお生まれになったばかりのイエスの姿を黙想するとき、私は心打たれる思いがします。神は、可愛くていたいけない幼子の姿をとり、人間の手にご自身を委ね、人間の次元まで降り、近づいてくださったのです。

 イエス・キリストは「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無に」33されたのです。神は、人間の自由、不完全さ、その惨めささえも引き受けてくださいました。神的な宝が伝え広められるようにお望みになりますが、その宝が壊れやすい器に入れられていることや、神の力が人間の弱さと混ざり合っていることを承知の上だったのです。

罪を経験しても、それによって、使命を疑うべきではありません。罪を犯すとキリストを認識するのは確かに難しくなります。ですから、自己の惨めさを正面から見つめ、浄化に努めなければなりません。神は現世での悪に対する完全な勝利を私たちに約束されず、ただ戦うことだけを望んでおられます。「わたしの恵みはあなたに十分である」34。高ぶらないように与えられた棘を退けてくださいと祈った聖パウロに対する神のお答えはこうだったのです。

 神の力は私たちの弱さの中に現れ、地上を旅する間は決して完全な勝利は得られないと知っていても自己の欠点と戦うようにと、私たちを励ましておられます。キリスト信者の生活は始めることであり、毎日はやり直しの連続なのです。

 キリストの十字架とそのご死去にあずかるならば、キリストは私たちの中で蘇られます。キリストの十字架と奉献と犠牲を愛さなければなりません。キリスト信者の楽観主義とは甘ったるいものではなく、また、万事うまく運ぶだろうという人間的な安心でもありません。それは、自由の自覚と恩恵への信仰に根拠をおく楽観主義、神の召し出しに応えるべく努力するように私たちを促し、駆り立てる楽観主義なのです。

 私たちの惨めさにも拘わらずというのではなく、ある意味でその惨めさを通して、つまり肉体と土から成っている人間としての私たちの生活を通してキリストが明らかにされます。絶えざる奉仕に自己を急き立てながら、人々のため惜しまず自己を捧げる努力、わがままを抑える努力、清い心でありたいと望む愛を実行する努力、よりよくなろうとする努力においてキリストが証明されるのです。

最後に、私たち信者が〈キリスト自身〉となって人々の中にキリストを現存させるならば、愛徳を実行するだけでなく、神の愛を伝え広め、その愛を通してキリストの人間的な愛情を伝えるという事実について考えてみたいと思います。

 自らの生涯は神の愛を表すためであるとイエスは考えておられましたが、それは、弟子の一人に「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」35というお答えにもうかがわれます。この教えに従って、使徒聖ヨハネはキリスト信者に、すでに神の愛を知ったからには行いをもってその愛を示すべきであると勧めています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」36。

私たちの信仰は、神を信じ、神と絶えず対話を保つよう、生き生きとしていなければなりません。キリスト信者の生活は、四六時中、神の現存を保つ絶えざる祈りの生活であるべきです。キリスト信者は決して孤独ではありません。天におられ、私たちと共におられる神との絶え間ない交わりの中に生きているからです。

 使徒聖パウロは、「絶えず祈りなさい」37と命じています。この使徒の戒めを思い起こして、アレクサンドリアのクレメンスは、次のように述べています。「他の人々のように特定の日だけではなく、一生の間、絶えずあらゆる方法を用いて、み言葉を救い主として王として認め、さらにみ言葉を通して御父を賛美し、礼拝するよう命じられている」38。

 一日の仕事の間、わがままな傾きに克つ瞬間、友情の喜びを感じるとき、このような時には、キリスト信者はいつも神と出会うことでしょう。キリストを通して聖霊において、キリスト信者は父である神との親しい交わりに近づき、神の王国を求めて道を歩み続けるのです。その王国はこの世のものではありませんが、この世に始まり、この世で準備されるのです。

 言葉とパンにおいて、聖体と祈りにおいて、キリストと交わらなければなりません。私たちの傍に本当に生きている友として、キリストと交わるのです。それはキリストが復活なさったからです。ヘブライ人への手紙にもある通り、キリストは「永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」39。

 キリスト、復活されたキリストは同僚であり友です。陰の間にしか見えない友ですが、その実在によって私たちの全生活は充実し、来世に至るまで友であってほしいと思う、そのような友なのです。「“霊”と花嫁とが言う。『来てください』。これを聞く者も言うがよい、『来てください』と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る』。アーメン、主イエスよ、来てください」40。

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