離脱

1955年4月4日 聖月曜日


聖週間が始まりました。カルワリオにおける救いの完成を目前にしています。このような時に、イエスがどのような方法で人類をお救いになるかを考えるのは、時宜にかなったことだと言えます。土くれのように卑しい人間を、筆舌に尽くし難いほど愛する主を黙想するのです。

 母なる教会は、灰の水曜日に、「人よ、おぼえよ、汝は塵であって、また塵に返る」1と呼びかけ、無に等しい私たちの姿を思い起こさせます。生気に満ちている今の肉体はいつの日か朽ちてしまう。歩みにつれて立ちのぼるほこり、あるいは「太陽の光に押しのけられ、その熱に解かされて、霧のように散らされてしまう」2存在、これが私たちです。

キリストの模範

 人間の儚さをありのまま思い出したあとで、今度は、素晴らしい現実に目を向けて欲しいと思います。それは、私たちを支え、神化してくださる神の偉大さのことです。使徒の言葉に耳を傾けましょう。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」3。師イエスの模範に落ちついて注目すれば、生涯にわたって黙想すべきテーマと、具体的な決心を立ててより一層寛大になるためのテーマを、数多く見つけることができるでしょう。目標を見失わないようにしてください。私たちはイエス・キリストとひとつになるべきなのです。すでにご存じのように、主の跡に従う私たちに模範を与えるため、自らを貧しくして、苦しまれました4。

聖なる好奇心にかられて、主がどのような仕方で愛の浪費とも言えるほどの愛を注いでくださったか、考えたことがあるでしょう。これについても、聖パウロが教えてくれます。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」5。これほどの秘義を前にすれば、驚いて当然です。感謝の心で多くのことを学びとらなければなりません。全能、荘厳、美そのものであり、偉大で測り知れない豊かさと、無限の調和をもつ唯一の神、その神が人間に仕えるため、キリストの人性に隠れておいでになる。全能の贖い主は、人々が近寄りやすいように、自らの光栄をしばしのお隠しになったのです。

 福音史家聖ヨハネは次のように述べています。「神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」6。人間が唖然とするような方法で主は出現なさいました。まず、ベツレヘムで生まれたばかりの赤子として、そののち近所の子供たちと全く同じ幼年時代を過ごし、しばしの時を経てから、賢明で利発な若者の姿で神殿に現れる。そして最後に、群衆の心をとらえ、熱狂させた、愛深く魅力的な師として。

受肉された神の愛をほんのわずか目にするだけで、神の寛大さに心打たれます。数多くの、卑しくて利己的な振舞いに対して痛悔の心をもてと勧め、優しく導いてくださるのです。自らを低めることさえ厭わないキリストは、私たちの惨めさを取り除き、神の子、キリストの兄弟としての尊厳まで与えてくださいました。それにもかかわらず、人間は愚かにもたびたび、与えられた数々の賜物や才能を誇り、時には、他人を支配する手段にしてしまう。比較的うまくやり遂げた仕事の功績を、まるで自力によるかのように考えてしまうのです。「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」7。

 神が自らを空しくして己を捧げてくださったことを考えると、(私たちがそれぞれ自分の状態を黙想する手掛かりとして話すのですが)自負心や自惚れという罪の恐ろしさが歴然としてきます。この恐ろしい罪に負けると、イエス・キリストの模範とは正反対の状態に陥ってしまいます。ゆっくりと考えてみてください。キリストは神でありながら自らを卑しい者とされました。ところが、自己愛で膨れあがった人間は、汚れた泥でできていることを認めようともしないで、是が非でも高められることを望むのです。

 幼い頃、金色の雉を贈られた農夫の話を聞いたことがあります。農夫はその贈り物にご満悦で、どこで飼おうかといろいろ思案し、優雅で素晴らしい鳥にふさわしい場所を物色しましたが、なかなか適当な場所が見つかりません。結局、鶏小屋に入れることになりました。雌鶏たちは、素晴らしい新入りをみて、神に出会ったかのように驚嘆し、その周りを駆け巡ります。大騒ぎのさなかに食事を知らせるベルが鳴り、飼い主が一握りの麬を投げ入れました。すると、皆の賛嘆の的になっていた雉がやにわに駆け寄り、貪るようについばみはじめました。長時間の空腹を満たしたかったのです。美の化身のような鳥が、ごくありきたりの鳥のように餌をついばむ卑しい姿をみて、囲い場の同居人たちはすっかり失望してしまい、失墜した偶像を突き始め、羽をすっかり抜き取った、という話です。自己崇拝も地に落ちると憐れをもよおします。特に自らの能力に自惚れて、自力を称揚していればいるほど。

 日々の生活に役立つ具体的な決心をしてください。超自然的、人間的能力は正しく活用するために授かったものです。そして、その授かりものを、あたかも自分の努力で獲得したかのように考える滑稽な思い違いをしないように気をつけてください。決して神のことを忘れてはなりません。

このように考えると、もし本当に神のお傍近くに従い、神と人々に仕えたいと望むなら、知識や健康、名誉や気高い望み、勝利や成功などから、つまり自分自身から本気で離脱すべきことを納得しなければなりません。

 高尚な望みについてもお話ししましょう。常に神に光栄を帰することのできるよう、次のような規準に従って生きる望みのことです。つまり、主がお望みなら望み、そうでないなら放棄する。こうすれば、良心を歪めている虚栄心や自己愛を狙い撃ちにすることができます。そして、無私の心を得た私たちは、一層親密に、一層熱烈に神を所有し、心は真の平和に安らぐことでしょう。

 主に倣うには、あらゆる種類の執着を断ち切らなければなりません。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」8。この言葉について大聖グレゴリオは説明を加えています。「物から離脱していても自分を捨てなければ不充分である。しかし、自分以外のどこへ行くのだろうか。自分自身から出たのなら、一体放棄するのは誰なのだろうか。

 罪によって堕落している状態と、神によって造られているという真実との両方を知らねばならない。神によって造られたという事実から、自分とは別な所に自分自身の存在のもとを見つけ出す。罪を犯して変わってしまった自己を放棄し、恩寵によって生まれ変わった自己を保持しよう。このように、高慢だった者が、キリストに向かって回心するなら、謙遜になり自己を放棄することになる。もし好色の人が節制に努めるなら、以前の自分を放棄したことになる。また、もし強欲な者が欲を抑え、他人のものを奪うのを止め、寛大になり始めたら、確かに自己を放棄したことになる」9。

キリスト信者の自己支配

徹底的に離脱した寛大な心を、主はお望みです。自分を虜にしている太い綱や細い糸を完全に断ち切るなら、主のお望みに応えることができます。そうするためには自己の判断と意志を捨てる絶え間ない戦いが必要になりますが、確かにこれは、欲しくてたまらない物質的善を捨てるよりもはるかに骨の折れる仕事です。

 主はすべてのキリスト者にこのような離脱の心を要求されますが、離脱の心は当然ながら行いに表れなければなりません。「イエスが行い、また、教え始め」10とあるとおり、主は教えを垂れるに当たってまず行いで示し、次いで言葉で教えました。極貧の中、馬小屋で生まれ、地上での最初のまどろみはまぐさ桶の藁の中であったように。その後の宣教中に示された数多くの模範の中から、弟子となって従う決意をした人たちに向かって言われた、次のような明白な忠告を思い出しておきましょう。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」11。また弟子たちが、空腹を満たすために安息日であるにもかかわらず麦の穂を摘んだ場面12も、決して忘れないでください。

御父のみ旨を果たす主は、いわばその日暮らしをして、ご自分の教えを実行しておられました。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。(…)野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」13。

 絶えず続く主の保護を深く信じ、神の摂理に厚く信頼して生きるなら、幾多の心配事や不安はなくなるでしょう。それだけでなく、イエスの言葉にあるように、超自然の見方のできない不信仰な人、「この世の異邦人」14が感じるような不安を心に抱くこともないはずです。友として、司祭として、また父としての信頼を込めて皆さんにお願いします。天においでになると同時に、心の内奥にも住まわれる慈しみ深い全能の御父、その御父のおかげで私たちは神の子となったこと、この事実を忘れないでください。必需品と思えるものからも離脱した心と楽観的な心があれば、日々の生活の営みを難しくするようなものは一つもないことを、しっかりと心に刻みつけてください。神は「わたしたちに何が必要かをご存じで」15、すべてを整えてくださいます。このような生き方以外には、神のお造りになった世界16に超然と接する態度を保つことはできないでしょう。神の子であることを忘れて、来るか来ないかわからない将来のことや、明日のことを思い煩うならば、たびたび陥る悲しむべき隷属状態を避けることができなくなってしまうからです。

再び、私の経験を少しばかりお話ししましょう。神のみ前にいることを考えながら話しています。私は人の模範になるような人間ではなく、ぼろきれのように哀れな道具にすぎません。このような私をお使いになった主は、椅子の足ででも完璧な字をお書きになれることを証明されました。ですから、私が自分のことを話しても、私に何らかの功徳があるなどとは毛頭考えていません。主が私を導いてくださった道を歩むことを他人に強要するつもりもありません。生涯を捧げたオプス・デイを支障なく成就させるために、神はすこぶる助けになる手立てをくださいましたが、全く同じものが皆さん方にも役立つとは限らないからです。

 神の摂理に信頼し、その全能の腕に万事をお任せするなら、自らの義務を忠実に果たし、主と教会と全人類に奉仕する手段を常に手に入れるだけでなく、とうていこの世の善の与え得ない喜びと平安に浸ることができます17。これについては手で触れるように自分の目で確かめてきましたから、皆さんに保証できます。

 一九二八年のオプス・デイ創立以来、人間的手段は何一つ持たないばかりか、個人的には一銭たりとも管理したことはありません。物質界に生きる人間は天使ではありませんから、仕事を効果的にするためにどうしても手段が必要となる。手段と言えば経済的な問題にかかわってきますが、私はこのような問題にも直接介入することはありませんでした。

 使徒的事業を維持するためには、多くの方々の寛大な協力が必要でしたし、これからずっとその必要が続くことは確かです。この種の事業は決して利益を生むものではない上に、協力者やメンバーの仕事量がいくら増えても、主への愛がなくならない限り、使徒職の範囲はさらに広がり、それに伴う必要もますます多くなるはずだからです。一度ならず霊的子供たちの笑いを誘う結果になりましたが、神の恩寵に忠実であるよう励まし駆り立てる一方、もっと多くの恩寵と現金、それも手の切れるような札束を厚かましくも主にお願いするよう励ましたものです。

 創立当初は、最低限度の必需品にも事欠いていました。しかし、神の熱愛に魅せられて周りに集まった労働者や職人や学生たちは、当時の困窮を意に介しませんでした。オプス・デイにおいては、天の助けを支えとして一所懸命に働き、数多くの犠牲と祈りを捧げますが、あまり表にあらわれないよう努めてきました。その頃を思い浮かべるたびに心は感謝の念でいっぱいになります。何事であれ必ず実現できるという強い確信がありました。また、神の国とその義を追い求めるなら、その他のものは加えて与えられる18ことを確信していたからです。使徒的な事業を、資金や手立てがないという理由で放棄することはありませんでした。主は適当なときに<通常の摂理>を通して、色々な形で必要を満たしてくださいました。主はいつも寛大に報いをお与えになることを示されたのです。

もしも、皆さんが自らの主人として振舞いたいと望むなら、心配や恐れなしに、すべてのものから離脱する強い望みをもってください。そのあとで、様々な個人あるいは家族の義務に留意し、それを果たすために正当な手段を正しく使ってください。おそらくそれと同時に、神と教会への奉仕、専門職、祖国、全人類に対する奉仕という面を考えてくださるようお願いします。実際に<持つ>か<持たない>かは、問題ではありません。大切なことは、この世界のものはあくまでも手段に過ぎないという信仰の真理に則して生きることです。それゆえ、この世のものを目的として、最も大切なものであると考えてはなりません。「地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もある」19。

 本当に悲劇的な場面をいくつも見てきました。幸せをこの世のものの中にのみ求めると、往々にして使い方を誤り、創造主が巧みにお定めになった秩序を破壊してしまいます。すると、心は悲しみと不満に閉ざされ、おそらくは、数限りない努力と自己放棄の末に手に入れた富の犠牲となって、不平不満だらけの毎日を送るはめに陥ってしまうでしょう。主は、無秩序で粗野な人、虚しい愛に溺れた者の心には、お住まいにならないことを決して忘れないでください。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」20。「それゆえ、幸せを与える愛にしっかりと心をつなぎとめ、天の宝を望もう」21。

義務の遂行や権利の行使を止めてしまいなさい、勧めているのではありません。実はその反対を主張しているのです。義務や権利を捨てるなら、神に招かれた戦い、聖人になるための戦いから、卑怯にも逃げてしまうことになります。良心の迷いを感じることなく、特に仕事に励み、あなたと家族がキリスト信者の尊厳を欠くことのないよう努力してください。万一、必要なものを欠くようなことがあっても、決して悲しんだり反抗的になったりせず、正しい手段をすべて用いて、そのような状態を切り抜ける努力を惜しまないでください。努力を怠ると、神を試すことになります。さらに、そのような戦いの間、すべては善のためであることを忘れないでください。神を愛する人々のためには、欠乏や貧窮を含め、すべてがその善に役立つのです22。わずかな制約、不快、暑さや寒さ、必需品の欠乏、さらに、思うように休息できないことや、空腹、孤独、忘恩、無理解や不名誉などに、喜んで立ち向かう決心を、今から立てておきたいものです。

父よ、彼らをこの世から引き離さないでください

私たちは、世相の流れの直中で過ごす普通のキリスト者です。その私たちに主は、聖人であれ、使徒であれ、お望みです。主は、専門職を通して自分自身と仕事を聖化し、人々を助け、その仕事で人々を聖化しなさい、仰せになるのです。主は、父として、友としての配慮をもって、今の環境にいる皆さんに期待しておられます。それぞれが自らの分野で責任をもって義務を果たすなら、単に経済的支えになるだけでなく、社会の発展に直接寄与し、人々の荷を軽くすることにもなります。さらにまた、地方ごと、あるいは国レベルで実行する、個人を対象か、あるいは恵まれない国々を対象とした奉仕活動や救済活動を推し進めることにもなるのです。

自然的な物の見方を保ちながら、人々と全く変わりない生き方をするのは、神であり人であるイエスの模範に倣っているからにほかなりません。主の生涯はどの点からみても、自然であったことを思い出してください。

 三十年もの間、世間の注目を浴びることなく、普通の労働者としてお過ごしになりました。村では大工の息子として知られていたにすぎません。公生活の間も変わり者と思われたり、人の目を引いたりすることなく、周囲の人々と同じように友人に取り囲まれ、人々と同じように振舞っておいででした。ユダは主を指し示すために、「わたしが接吻するのが、その人だ」23と具体的な合図を決めておく必要があったほどです。イエスには奇妙なところは全くありませんでした。周囲の人々と同じ生活の営みを続けた主を見ると、心打たれます。

 洗礼者聖ヨハネは、その特別の使命ゆえにらくだの毛皮をまとい、いなごと野蜜を糧として生きていました。救い主は、縫目なしの上着をまとい、人々と同じように飲食されます。他人の幸せを共によろこび、隣人の悲しみに心を痛め、友人の提供する息抜きも快く受け入れておられました。長年、自らの手を使って、大工のヨセフと共に生活の糧を得ていましたが、そのことを誰にも隠しませんでした。社会に生きる私たちも、主のように日々の生活を営まなければなりません。要約すると、清潔な服装と清い体、そして何よりも清い心で、日々を過ごさなければならないのです。

 主は、現世的善から離脱すべきことについて、素晴らしい教えをお説きになりましたが、同時に、ものを浪費してはならないことをも強調なさいました。五千人以上の人々を満足させたあのパンの奇跡の後、「『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、お残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」24。この場面を注意深く黙想すれば、要は、けちになるのではなく、神のお与えになった才能や物質的手段のよい管理者であれ、お教えになっていることが理解できるでしょう。

模範である主について考えた今、私が述べる離脱とは、自分の主人になることであり、怠惰や不精の仮面とも言うべき、いかにも哀れな、人目を引く貧しさではないことがお分かりになったでしょう。皆さんの同僚と同じく、皆さんの身分・環境・家族・仕事などの品位に応じた服装をすべきです。もちろん、真のキリスト教的生活の、魅力的な本物の姿を見せるため、つまり神のために、そうしなければなりません。変わったところのない自然な生き方をしなければならないのです。しかし、どちらかと言えば、悪すぎるより良すぎるほうをお勧めします。主の服装はどのようであったと想像されますか。聖母マリアが手ずから織ったあの縫目なしの外套を上品に着こなしておられたとは思いませんか。招かれて、席に着く前に、手足を洗う水を勧めなかったシモンをお咎めになったのを覚えているでしょう25。愛は細やかな心遣いのうちにあらわれるべきであることをはっきりと教えるために、あの礼儀知らずの態度を引き合いに出されたのですが、実は、郷に入っては郷に従えという教えの大切さを、はっきり教えるためでもありました。とにかく、地上の富や安楽から離脱すべきではありますが、調子はずれや場違いなことにならないよう、気をつけなければなりません。

 物は注意して使い、不必要な摩滅を防ぎ、長持ちするよう保存に気を配り、使用目的にかなう使い方をするよう管理すること。このような態度は、私にとっては世を支配する神の忠実な管理人であることの表れです。オプス・デイのセンターでは、質素で上品な装飾、特に清潔に気をつけています。貧しさを趣味の悪さや汚れと混同してはならないからです。とはいえ、皆さんが自分の可能性や社会的義務に相応しいものを持ち、それを犠牲と離脱の心で管理するのはよいことです。

二十五年以上も昔、善意の婦人グループの管理する、貧しい人たちのための大きな慈善食堂に通っていました。物乞いで生きる人々は、そこで与えられるわずかな食事だけで日々の飢えを凌いでいたのです。ある日、二番目のグループの一人に注意を引かれました。その人は大切そうに懐からアルミ製のスプーンを取り出すと、嬉しそうにじっと眺め、食事が終わると、“これは自分のものだ”と言わんばかりに再びスプーンを愛でるのでした。そして二、三度それをなめまわしてきれいにしたあと、満足げにぼろのひだの中にしまいこみました。それは“その人のもの”でした。不運な生活を強いられていた人々の中で、その哀れな人はお金持ちのつもりだったのでしょう。

 その頃、ある老婦人と知り合いになりましたが、その婦人は貴族の称号をもっていました。ところで、このような称号は神のみ前でなんの価値もありません。私たちは全員、アダムとエバの子であり、弱い存在、徳と欠点をもっています。それに、万一、主に見捨てられると、ひどい罪を犯すことさえできるのです。キリストの贖いが実現した後、人種や言語、肌の色や血筋、富などによる人間の違いはなくなりました。私たちはみな神の子です。お話ししていた婦人は先祖から受け継いだ邸宅に住みながら、慎ましい暮らしをしていました。しかし、家事の手伝いをしてくれる人にはとても気前よくはずみ、残りは貧しい人たちの救済に当てていたのです。彼女自身は言えば、あらゆる欠乏に耐えていました。大勢の人が何としても欲しがるような資産家であったにもかかわらず、個人的には貧しく、犠牲心に富み、すべてのものから離脱した心を持っていました。お分かりでしょうか。この話に、次の主の言葉を加えればすべて明らかになるでしょう。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」26。

 もし、このような心になりたければ、自分自身のことについては慎ましく、他人には気前よくなってください。贅沢や気紛れ、虚栄や安楽のための無駄遣いを避け、今あるもので満足するよう努力することです。聖パウロと共に、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」27と言えるようになりたいものです。このように、離脱して何ものにも縛られない心を持つなら、聖パウロ同様、内的戦いに勝つことができるでしょう。

 大聖グレゴリオは教えています。「信仰の競技場にやってきた人は皆、悪霊と戦う義務がある。悪魔はこの世に何も持っていないので、裸で戦いに挑んでくる。それゆえ、われわれも裸で挑戦を受けねばならない。裸で向かってくる敵に対して服を着て応じるなら、すぐ負かされてしまうからである。地上の物は、この衣服の類でなくて何であろう」28。

神は喜んで与える者を愛される

私たちの完全に離脱した心を主はお望みですが、その離脱の対象となるもうひとつ大切な点、つまり健康について考えてみましょう。皆さんの大部分は若くて活気にみちた年齢の人たちです。しかし、時の経過に伴い、容赦なく体力は衰えはじめ、成熟期を越え、やがて老化現象が訪れます。そのうえ、いつなんどき病気にかかり、肉体的不調を忍ばねばならなくなるか知れません。

 もし、健康に恵まれた順調な時期をキリスト教的に正しい意向で活用したなら、人々が思い違いから悪いと思う出来事を、超自然的に喜んで受け入れることができるでしょう。あまり細かなことに触れないように気をつけて、私の体験をお話ししましょう。病気の時は気難しくなりがちです。「よく気を配ってくれない。誰も心配してくれない。誰も思うように世話してくれず、理解もしてくれない」など。悪魔はいつも攻撃しやすい弱点を窺いながら歩き回っています。病人に対する悪魔の策略は、一種の精神異常をあおりたてて神から引き離し、周りに苦々しさを撒き散らすように働きかけることです。その苦しみを超自然的、楽観的に忍べば人々の役に立つ功徳を積めるはずなのに、そんなことはさせないようにするのです。苦しみが神のみ旨であれば、それを快く受け入れなければなりません。主の救いの十字架に、もっと直接にあずかることができるからです。それには、普段から自分自身に執着しないで日々を過ごさなければなりません。日常生活で、ちょっとしたものの不足や、いつもの不平、節制などを利用して、キリスト教の徳を実行するよう努力してください。そうすれば、主がお許しになる病気や不運を、気前よく堂々と忍ぶことができるでしょう。

日常生活では自らに厳しく接すべきです。自惚れや気紛れ、安楽や怠惰などに負けてはなりません。負けてしまうと、問題でない事を問題にし、必要でないものを必要であると考えてしまいます。歩みを阻む邪魔ものを取り除き、重荷をおろして、急ぎ足で主に近づかなければなりません。<心の貧しさ>とは、持たないことではなく、真の離脱のことですから、勝手な理由を作り上げて、仕方ないと諦めるがごとき自己欺瞞に陥らないよう注意しましょう。「必要な分だけを求めなさい。そして、それ以上は望まないように。必要以上のものは、ほっとさせてはくれない。それどころか苦しみのもとになる。奮起させるどころか、悲しくさせてしまうからである」29。

 一風変わった複雑な事情を想像して、このようなことを勧めているのではありません。神の現存を保つために、射祷を書いた紙片を、栞として使っていた人を知っていますが、そうこうするうちにその紙切れが宝物のように愛おしくなってきました。何でもない紙切れに愛着を感じていることに気づいたのです。大した徳の模範ですね!お役に立てるなら、私自身の惨めさをお見せすることにやぶさかではありません。いま少しだけお見せしました。おそらくあなたにも同じようなことがあるのではないかと思うからです。たとえば、あなたの本、服、机、あなたが執着する紛い物の数々。

 そのような時には、子供じみた気持ちになったり、小心にとらわれたりせずに、霊的指導者に相談してください。時によっては、短期間、ある物の使用を中止し、小さな犠牲として捧げるだけで充分でしょう。いつも利用している乗り物を一日使わなかったとしても、別に大したことではありませんから、わずかな額の乗車料金を献金することもできます。いずれにしても離脱の精神があるなら、その離脱の心を人目につかずに実行する機会を、絶えず見つけ出すことができるはずです。

 心を打ち明けたあとで、捨てるつもりの一切ない執着心を持っていることも白状すべきでしょう。それは、皆さんを心から愛している、ということです。この愛は神から教わりました。まず自分の周りからはじめて、すべての人を限りなく愛し、主の模範を忠実に実行するつもりです。「イエスの愛しておられた弟子」30という福音書の言葉には、イエスの愛が如実にあらわれています。主の熱烈な愛情を知って心を打たれずにいられるでしょうか。

祈りを終えるに当たって、今日のミサで読んだ福音書の言葉に耳を傾けましょう。「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」31。マリアの<浪費>くらい、物惜しみしない心を表すものはないでしょう。強欲なユダは勘定高く計算し、少なくとも「三百デナリオン」32に相当する香油がむだになったと嘆きました。

 本当に離脱しているなら、神と兄弟に対してすこぶる広い心を示すはずです。隣人の必要を満たすため、身を粉にして、すばやく対策を講じるはずなのです。キリスト信者たる者が、自分と家族の必要を満たすだけで満足しているわけにはゆきません。信者たる者の心の広さは、愛徳と正義に基づいて他人を助ける努力に表れるはずです。聖パウロは次のようにローマの人たちに書いています。「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」33と。

 限りなくすべてを捧げるほど寛大であった御方に対して、<けちけち>した態度をとらないようにしましょう。金銭的にも、真のキリスト者の名に値すると認めてもらうのはなかなか難しいものです。しかし、特に次のことを忘れないでください。「喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」34。

 イエス・キリストの受難を間近に見ながら生きるこの聖週間中、聖母に倣って、これらの教えを心に留め、思い巡らす35ことのできるよう、マリアにお願いしましょう。

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