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キリスト者がこれらの徳を獲得するために戦うならば、その人の心は聖霊の恩寵を受ける用意ができていると言えるでしょう。人間としての良い素質は、慰め主のお与えになる霊感によってますます強められます。「霊魂の甘美な客人」24、つまり、三位一体の第三のペルソナである聖霊は、上智、聡明、賢慮、剛毅(勇気)、知識、孝愛、主への畏敬25からなる七つの賜物をお恵みになります。

 そして、内的喜びと平安26、自然徳である喜びを心に感じることができるのです。お先真っ暗に思えても、実は真っ暗ではありません。「あなたはわたしの神、わたしの砦」27。主が心の中にお住まいになれば、たとえ非常に重要に思えても、もろもろの事柄は一時的で儚いものに過ぎず、神のうちにいる私たちこそ永続するもの、留まるものであることが分かります。

 聖霊は、孝愛の賜物によって神の子であることを確信できるよう助けてくださいます。神の子でありながらどうして悲しんでなどいられますか。悲しみは利己主義の産物にすぎません。主のために生きようと望むなら、たとえ、自己の過ちや惨めさを見せつけられたとしても喜びを失うことはないはずです。喜びがあるということは神を愛している証拠ですから、祈りに熱中し、歌い出さずにはおられません。歌うことは、愛に酔っている人の特徴ではないのでしょうか。

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