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「わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」14。主のこの言葉を黙想すると、私たちの唯一の目的が聖性であることが分かります。人々を聖化するためには自らが聖人にならなければならないのです。同時に、誘惑する者が来て、巧妙に誘うこともあります。次のような思いに襲われることもあるかもしれません。神の招きに応えた私たちは少数者にすぎず、それも出来の悪い道具であると考えてしまうのです。人類全体と比べて、私たちは少数にすぎず、個人的にみても全く価値のない人間であることは事実です。しかし、師イエスの言葉は権威ある御方の言葉です。キリスト信者は、光であり塩、世のパン種である。「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませ」15なければならない。正にこの理由から、私たちは、百人いれば百人とも、すべての人々に、いかなる差別もなく関心を持たねばならない、といつも説いてきたのです。キリストがすべての人々を贖ってくださったこと、また、たとえ少数にすぎず、無能をかこつ身であっても、その私たちを道具として、救いを全世界に告げ知らせるよう、主が望んでおられることを確信しているからです。

 キリストの弟子なら、決して人をひどく扱わないはずです。誤りは誤りとしてはっきりさせねばなりません。しかし、過ちを犯した人に対しては、愛をもって接し、正してあげます。万一そうしなかったら、その人を助けることも、聖化することもできないでしょう。仲良く過ごし、理解し、赦して、兄弟になる必要があります。十字架の聖ヨハネも勧めているように、どのような時でも、「愛のないところに愛を注ぎ、そこから愛を引き出さなければなりません」16。これは、職業や家族関係、社会的関係といった、目立たない場においても実践すべき勧めです。それゆえ、あなたも私も、周囲にある平凡な機会を利用し尽くし、贖いの協力者として、心地よく味わい深い重荷を日々の生活に感じながら、隣人と私たち自身、そして同じ理想を分かち合う人々を聖化しなければならないのです。

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