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節制の実り

節制とは自らの主人であることです。心と体が経験できることを、実際にことごとく経験することはできません。また、たとえできるとしても、すべてを実行しなければならぬというわけではありません。自然の衝動と称するものに引きずられるままになるのは容易なことですが、そうなると、遂には、悲しみに襲われ、自らの惨めさの中で孤独をかこつことになるでしょう。

 食したり、見たり、所有したりすることにおいては思いのままで、何を拒まない人がいます。清らかな生活を送れという忠告を無視し、神の業に参与するための気高い能力である生殖機能を、わが身を満足させるための道具であるかのようにみだりに利用するのです。

 ところで、私は不純なことについては口にさえしたくありません。節制のもたらす実りについて述べることにしましょう。本当に人間らしい人間について考察したいと思います。小鳥を獲るための罠に使われるような安光りする価値のないものに執着しない人、霊魂を害するものから離脱できる人、犠牲といっても犠牲に見えるだけであることに気づいている人、このような人々について考えたいのです。犠牲を実行すれば、多くの隷属状態から解放され、心の深奥で神の愛をことごとく味わうことができます。

 心の奥で神の愛を味わうようになると、不節制によって言わばぼやけてしまった生活が、色合いを取り戻します。人々に心を配り、自分のものを分かち合い、大きな仕事にも取りかかる。節制によって、飲食には控えめで、慎み深く包容力のある人になる。魅力ある慎みが自然に表にあらわれる。その人の行動は知性に導かれているからです。節制は偉大さを示すのであって、制限を意味するのではありません。不節制であるがゆえに不自由になると、ブリキでできた鈴のようなつまらない響きにすぐ負けてしまいます。価値のないものにすぐ心を奪われてしまうのです。

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