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空想を述べているのではありません。私がお話ししているのは、非常に具体的で、非常に重要なことです。救いのわざが始まったばかりの頃、社会はすこぶる異教的で、神の要求に強い敵意を示していましたが、そのような社会をさえ変えることができた理由について話しています。当時の無名作者の言葉をよく味わってください。召し出しの偉大さを次のように要約しています。「この世にいるキリスト信者は、肉体の中にある霊魂のような役割を果たす。霊魂が体の四肢に行き渡っているように、キリスト信者は世界の諸都市に行き渡っている。霊魂が体に住んでいても体のものでないように、キリスト信者はこの世に住んでいながらこの世のものではない。見えない霊魂は見える体に保護されている。事実、キリスト者も、この世にいることは知られているが、彼らの内的生活は見えないままである。(…)死滅しない霊魂が、死滅する幕屋に住んでいるように、キリスト信者も天上の朽ちない住処を仰ぎ見ながら、朽ちるこの世に寄留人のように住んでいる。霊魂が犠牲によって一層美しくなるように、キリスト信者は迫害にあって日に日に増加してゆく。(…)霊魂は自ら望んで肉体から離れることができないように、キリスト信者も社会における自分の使命を放棄することは許されていない」17。

 こういうわけで、この世の事柄を無視するなら、道を誤ることになるでしょう。神は日常茶飯事のなかで待っていてくださいます。無限の知恵である神の摂理が、整え、あるいは許す日常生活の出来事を通して、人間は神に向かうべきなのです。しかし、自分の仕事を最後まで仕上げず、人間的にも超自然的にも意欲的に仕事を始めておきながら途中でくじけるなら、最も有能な人のように職務を果たさないとすれば、さらに本当に望むならできるはずですから、それ以上立派に仕事をやり遂げなければ、この目的を達成することはできないでしょう。私たちは完全に遣り遂げた仕事、精妙で巧みを尽くした細工の名品を神に捧げるために、この世の正当な手段だけでなく必要な霊的手段すべてを用いることができるのです。

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